豚の生の意味と科学と哲学と SF
『アリストテレスへの答え―科学と哲学はどのようにしてより意味のある生へと豚どもをみちびくか』
Chapter 1. Sci-Phi and the Meaning of LifeAnswers for Aristotle: How Science and Philosophy Can Lead Us to A More Meaningful Life
- 作者: Massimo Pigliucci
- 出版社/メーカー: Basic Books
- 発売日: 2012/10/02
- メディア: ハードカバー
- この商品を含むブログ (1件) を見る
「あらゆるものに目的がなければならないのか?」神は聞かれた.
「もちろん」ひとは答えた.
「では,それを考え出すことをそなたに任せよう」と言って神は行ってしまわれた.
- 作者: カート・ヴォネガット・ジュニア,伊藤典夫
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 1979/07/01
- メディア: 文庫
- 購入: 7人 クリック: 148回
- この商品を含むブログ (164件) を見る
- 著者は小さい頃少々ぽっちゃりしており,つらみがあったが,努力して生活改善して QOL があがった
- 基本的なアイディアは,どんな問題であれ,問題に関連する事実と,そうした事実を評価するときに我々を導く価値があるということ
- 事実は科学の,価値は哲学の本領なので,サイファイは我々の実存の意味をどう構築するかという永遠の問いにアプローチするための有望な方法
- ダイエットの問題に戻れば,科学はこの主題について多くの助言が可能だが,いまだに大衆はその知識に気づかずに,奇跡のダイエット,奇跡のピル,その他,表層的な安易な解決策に溺れている
- Gina Kolata 「痩身を再考する:体重削減の新科学」 (2008) は,Rockefeller 大学病院で八ヶ月にわたって肥満患者を対象にして行われた Jules Hirsch によるダイエット研究を描いている(研究自体は 1959 年で肥満の流行以前)
- Hirsch らは肥満患者は,一般のひとびとより大きい脂肪細胞を有している事を知り,ダイエットによってそれらがどう変化するかを調べた
- ダイエットの結果,脂肪細胞のサイズが縮小することが判明し,Hirsch は,これによって,患者らは日常生活に戻った後も標準体型を維持できると考えた
- しかし,患者らは標準体型を維持したいと望んでいたにも関わらず,数ヶ月で元の体重に戻ってしまった
- 後の研究によって,痩せ過ぎのひとびとにも対称的なメカニズムが働いていることが明らかになった
- 体重を増やそうと思って,一日 10000 カロリーを摂取すると,代謝が急進する
- 暴食を止めると,急進した代謝が脂肪を燃やしつくし,元の痩身に戻る
- こうした研究や,BMI に関する遺伝研究が示すのは,我々には,代謝や体重に関して「設定された幅」があり,こうした自然な幅を逸脱しようとする行為に対して身体は極めて抵抗的であるということ
- 我々の出来ることには制約があり,それを突破するには意志の強さという貴重な心理的資源のコストがかかる(第9章)
- ひとびとがこうした知識に気づいていたら,もっと現実的な期待を持ち,より確実な方法を追求し,すぐに幸福を実現させる「銀の玉」のキメラに飛びつくことをやめるだろう
- 食べ物に関するひとびとの弱さにつけ込んで搾取する産業は崩壊するだろう
- 哲学は何ができるか?
- 体重の遺伝や代謝効率や脂肪細胞のサイズといった事実は,それが人々の現実の生活に影響する限りで学術的な関心の対象になるが,なぜ,こうした事実は我々の生活に影響するのか?
- 科学からの回答は,「肥満は健康に負の影響を持つため」
- 個人の健康への悪影響だけではなく,社会的な経済コストもかかる
- しかし,これはストーリーの一部であり,病的な肥満でなくとも,ひとびとは体重に関心を寄せており,ダイエット産業やエクササイズ・マシン産業は何百万ものアメリカ人の強迫観念を搾取している
- 体重の問題に関連する判断においては,美的で道徳的なものも関与しており,これらは科学ではなく哲学の問題である
- もし我々が肥満は醜いとかんじているのならば,無意識に,魅力的な人間はどのようなものかについての特定の美学理論を採用しているためである
- この理論は我々が生活している文化から影響を受けており(物理的な美の概念には時代や地域に関して大きな変異がる),また,ある程度生物学的な本能にも影響を受けている(対称性は健康な遺伝子の指標であるために好まれる)
- 同様に,自己制御の欠如ゆえに肥満を責めるならば,我々はどのように生きるべきか,どの程度美的基準を満たすために投資を行うべきかについての,道徳的な判断を行っていることになる
- 我々は気づくことなく,哲学を行っており,悪い哲学は人生を本来あるべきものよりも惨めなものにしてしまう可能性がある
- 哲学と科学を組み合わせることで世界について,そして,その中でどう生きるべきかについて最善の可能な知識を得るというアイディアは古く,scientia というラテン語の古典的な概念の中に含まれている.Scientia は科学と人文学の両方を含んでいる
- ドイツ語の wissenschaften という語も同様で,英語の science よりも広いものを指示している
- 西洋伝統の中で最初に scientia (著者のいうサイファイ)という概念を真剣に捉えた哲学者はアリストテレス (384-322 BCE) で,この本の中で何度も現れてくる
- アリストテレスについて重要なことは,すでに時代遅れになったその scientia の中身ではなく,特定の哲学的ポジションでもなく,人生はプロジェクトであり,それをどう追求すべきかを自らに問いかけることが最も重要であるという根本的な概念である
- アリストテレスはこうした大きな問いに哲学的・科学的方法で取り組んだ最初の人間であり,我々はこうした問いに答えることが出来るようになりつつある
- アリストテレスにとっては,このプロジェクトは eudaimonia の追求に従事することであった
- Eudaimonia とは,「良いデーモンを持つ事」を意味するギリシャ語で,しばしば「幸福」と訳されるが,より適切には「繁栄」を意味する
- Eudaimonia は,実存の全域にわたって徳のある行為―すなわち,正しい理由により正しいことを行う事―に従事することで達成される
- 人生はプロジェクトであるため,人生の価値の査定は,それが終わるまでは不可能であり,こうした考えは現代の我々にとっても未だに直観的な魅力がある
- たとえば,人生のある地点まで良い生を送っていたものの,その後に非倫理的な行動を起こした人間の人生の評価は低いものになる
- 逆もしかり.低迷したところから高い倫理的地点に至った人間は賞賛される
- アリストテレスは良い心理学者であり,我々が何をなすべきかについての理性的な査定と,易きに流れる情動的傾向とを調停することが難しい事をよく知っていた
- 長期的な健康を保つ事の善を知っているが,直近の報酬へと引きつけられる傾向性は,我々を美食に浸らせ,エクササイズ・マシンから遠ざける
- アリストテレスは(ファースト・フードを知らなかったが),eudaimonia の増進の障害となるのは,akrasia (意志の弱さ)であると考えていた
- この意味で,徳が高いとは,善行を妨げる意志の弱さを克服することであり,これがひとを繁栄へと導くのである
- Eudaimonia がポジティヴな感情という意味での「幸福」ではなく,価値負荷的であり,内在的に道徳的な概念であることは重要である
- 古代のギリシャ人は物理的な快や富,権力の追求に尽きる人生は,いかに「幸せ」であっても eudaimonic ではないと考えていた
- これらの追求は,自身を改善せず,世界に良い影響をもたらすわけでもなく,eudaimonia への妨げであると考えられる
- Eudaimonia は,また,キリスト教の禁欲主義の徳や仏教のデタッチメント(捨無量心?)とも混同されてはならない
- アリストテレスからエピキュロスに至るまで,良い食事のような物理的快や愛や友情,幸運さえもが,eudaimonic な生にとって必須だと考えていた.
- しかし,こうしたことに対する内省に時間を費やすことが eudaimonic な生をおくる上で重要だと考えていたのだ
- 21世紀現在,こうした考えは時代遅れに思われるし,美学や倫理学や人生の意味についての哲学的思索はばかばかしく,医者の命令に単純に従うのが合理的なように思われるかもしれない
- しかし,事実と価値の重要で見逃されがちな区別に従えば,問題は非常に微妙である
- 事実から価値を引き出す事は「自然主義的誤謬」として知られる
- この問題を最初に論じた哲学者のひとりであるヒュームによれば,ひとはしばしば事実について語りながら,結局,継ぎ目無く,説明無く,倫理的規範へと話題を切り替えてしまう
- ヒュームは事実と価値との間に接続がないことを主張したのではなく,そのような接続を行うものは明示的にそれを正当化する必要があることを指摘したのである
- 自然主義的誤謬は,この本における科学と哲学の接合が理性ある人間の生活を大きく改善するというアイディアに寄与している
- もちろん,科学と哲学の明確な境界は人間の歴史においては近年のものだ
- Galileo Galilei (1564-1642) や Isaac Newton (1642-1727) は自らのことを「自然哲学者」と見なしていた
- なぜ科学と哲学は別個のものとして発展したのか,そして,それらを再び結合させようとするサイファイいう試みは一体何を意味するのか?
- 世界の本質の発見からその技術的・医療的応用に至る科学の産物にひとびとは親しんでいるので,なぜ科学が発展したかは,(哲学に比べ)よりわかりやすいだろう
- しかし, 科学については多くの誤解がある
- 「科学的方法」なるものは存在しない:科学は秩序だったプロジェクトではあるが,実際の科学者の指導原理は「うまくいくならなんでも」である
- 科学者は本質的にプラグマティックであり,質問に満足いく答えが得られるまでは,様々な観点から問題にアプローチし,様々な探求方法を採用する
- 科学の奇妙な点は,しばしば世界の仕組みについてあり得ないような結論に至り,常識を拒絶する事で,その発見に対して大きな拒絶反応をひきおこす事である
- 量子効果は個体が空間を占める事を説明する;地球は巨大な銀河の片隅の塵のようなもので,その銀河自体が宇宙には何十億もある中のひとつである;人間は(いまだに多くのひとが持つ意見とは異なり)チンパンジーやゴリラの近縁である
- 「緑柱石の宝冠」におけるシャーロック・ホームズの説明のように,「不可能な物をとりのぞいた後に残る物こそが,どんなにあり得ないように思えても,真理なのだよ,ワトスン君」
- 科学について,もうひとつ,よく誤解されていることだが,科学は永久の真理を見出す仕事ではなく,真である一定の確率を持つ暫定的な結論を提供するものである
- 前段落で書いた,宇宙における地球の地位についても,絶対的な真理として書いたのではなく,これまでの積み重ねられた観察と理論から導かれるものであり,将来,そのどちらか(あるいは両方)がひどく間違っていたという結論に到達することもあり得る
- この場合,未来の宇宙学者は,現在の我々が地動説を唱えたプトレマイオスに対して向けるような哀れみをたたえた微笑みを浮かべて我々を眺めることだろう
- 科学的結論の暫定性は,科学者の耐えざるインスピレーション源であり,政策決定者や一般大衆の耐えざるフラストレーションと誤解の源でもある
- 彼らは(特に科学的研究に大金を投資している場合)科学者に「真理」を伝えてもらいたがる
- 科学はしばしば尊大な人間の究極的な隠れ家として考えられるが,科学者自身は人間の世界についての知識の探求に内在する限界を説明しようとし続けるという皮肉がある
- 科学を哲学や文学批評やその他の分野と異なるものにしているのは何か?
- 科学より古く,さまざまな発展を遂げてきた哲学を明確に特徴づけるのは更に望みが薄い
- 20 世紀の最も影響力のある哲学者 Ludwig Wittgenstein (1889-1951) は「哲学とは我々の知性にかけられた言語による魔法に抗する闘いである」と述べた
- 言語とはその性質上、不正確であり混乱の源であり,語の使用により誤って導かれることに抗し続けなければならない
- しかし,言語なしでは,世界についての洗練された思考が不可能であることも確かである
- こうした問題は,科学者が研究において立ち向かうものと同様である:我々が用いるあらゆる道具には必然的に限界があり,誤りうるものであるが,それでも前進するためには道具を用いなければならない
- 違いは,哲学においては,究極的な人間の道具である言語そのものの効力と限界を取り扱わなければならないということ
- 哲学とは何かについては膨大な回答の可能性があるが,言語の合理的な使用を取り扱う分野として哲学を考えることが,哲学がどうしてこれほど広範な分野であるかを理解するうえでもっとも容易な方法である
- 科学と同様に,哲学に対するよくある誤解もあるのでここで指摘しておく
- 哲学は,科学同様に,進歩している
- 科学が進歩していると言えるのは,単純化して言えば,世界に対する理解が世界の実際のあり方とより適合するようになった場合
- 同様に,哲学が進歩していると言えるのは,人間の概念の意味や含意,そしてそれらと世界との関係をより良く理解するようになった場合
- たとえば,哲学は人間の道徳性についてのいくつもの理論を生み出し,さまざまな論理的可能性を探索してきた(第五章)
- アリストテレスは,道徳性とは人間を繁栄させるものであると考えた(いわゆる徳倫理)
- Jeremy Bentham (1748-1832) と John Stuart Mill (1806-1873) は,功利主義と呼ばれる考え方を提唱し,最大多数の幸福を増進させるものを何であれ倫理的であると考えた
- カントは他の人間に対して我々が果たすべきある種の義務に基づいた規則の集合として道徳性を明確化した(規則に基づく,あるいは,義務論的な倫理)
- 哲学者たちは,これらのシステムの含意を取り出し,批判し,洗練や代案を提案してきた
- 現代の哲学者は,これらの当初の形式をそのまま信奉するほどナイーヴではなく,こうした分野での議論はより洗練されてきており,より新しいレベルの理解へと議論はいまだに進展している
- 哲学を分野としてどうとらえるにせよ,哲学と科学との関係は,この本で興味深い転回を見せる
- 意識研究に関する学術会議や雑誌には哲学者と科学者が関与しているが,著者の予想では,この分野は次第に科学者によって独占されるようになるだろう(かつての心理学のように)
- こうした進化は哲学と科学の相対的価値を示すものではなく,二つのアプローチが相補的であることを意味するのみである
- 問題が曖昧に定義され,経験的に手が付けられない場合は,哲学者が問題を明確化し,科学がそのテーマに適切な実験的ツールを開発するまでに概念的な基盤を用意する
- しかし,こうした移行だけが可能な経路ではなく,ヒュームのいう自然主義的な誤謬が二分野間の移行を排除する問いは常に存在する可能性がある
- それらがこの本の主要な関心である
- 道徳に関する問いは科学的な回答を単に受容することによっては答えられない
- もちろん意味や価値に関する哲学的議論は,科学的な理解によって支えられなければならない
- 他にも,最良の科学と最良の哲学の組み合わせによって,より合理的な位置に立てる問題は多くある
- 何を知識としてみなすべきか,それはなぜか,我々は何者か,友情と愛,正義や政治の分析,神に関する問題,実存の意味
- これらのすべてにおいて,サイファイは重要な貢献をもたらす
- 前提は,理性と証拠によって生を導き,改善することに関心を持つこと