道徳の「内容」は生得的{だ/か}

Moral Psychology: The Evolution of Morality: Adaptations and Innateness (A Bradford Book)

Moral Psychology: The Evolution of Morality: Adaptations and Innateness (A Bradford Book)

Ch.2. Cosmides. L. and Tooby, J. "Can a General Deontic Logic Capture the Facts of Human Moral Reasoning?"(えめばら園)
Ch.6. Sripada, C.S. "Nativism and Moral Psychology: Three Models of the Innate Structure that Shapes the Contents of Moral Norms"
 6.1 Harman, G. "Using a Linguistic Analogy to Study Morality" ←いまここ
 6.2. Mikhail, J. "The Poverty of the Moral Stimulus" ←いまここ
 6.3. Sripada, C.S. "Reply to Harman and Mikhail" ←いまここ
Ch.7. Prinz, J. "Is Morality Innate?"(えめばら園)

6.1 言語アナロジーを道徳性の研究に用いること
Gilbert Herman

Sripadaは道徳性の生得性について (1) 特定の原理が生得的であるとするSI (simple innateness) モデル (2) PP (principles and parameter: 原理とパラメータ) モデル と (3) 生得的なバイアスが道徳性の内容を決定することなくひとびとの獲得する独特性に影響を与えるとする IB (innate bias) モデルとを区別し,(1), (2) を退けて (3) を提唱した.ここではIBモデルについて議論することなく,SripadaによるSIモデルとPPモデルを棄却する議論が不完全であり,3つのどのモデルも可能性があることを論じる

6.1.1 単純な生得性
Sripadaの当初の定式化では,SI モデルは「いくつかの道徳的規範が生得的である」というものだったが,すぐに「多くの特定の規則が生得的であり,その内容は非規範的な語彙で定式化される」というものに再定式化された.

コメント
1. 多くの生得的な規範があるという主張を否定することは,いくつかの生得的な規範があるということと整合的である
2. どちらの主張にせよ,生得的な規範が非規範的な語彙で内容が定式化されなければならないという解釈には同意できない.規範が「正,誤,善,悪,正義,不正義」などについてのものであるならば,その内容は部分的には規範的な語で定式化されなければならない

    • もし非規範的な語で「正,誤,善,悪,正義,不正義」のようなものを同定することが可能でなければならないとするならば,規範に言及する規範(例「間違っていることをひとに教唆することは間違っている」のような原理)は締め出されてしまう
    • もしこうした原理を締め出すならば,二重効果原理(「他者により大きな善をもたらすための手段(の一部)として(それに同意していない)誰かに害をもたらすことは,より大きな善をもたらすために行った行為の副作用としての害を引き起こすことよりも,悪い」)のようなものも排除されてしまい,SI モデルそのものが問題の多いものになってしまう.
    • 言語において普遍的な原理があるというとき,言語学者はこうした原理が言語学の概念を用いることなく定式化されるとは想定していない.道徳においても普遍的な原理に規範的な語彙が含まれていても良いのでは

3. Sripada は「多かれ少なかれすべての普遍的な規範として想定されるものは,多様性を帯びている」と示唆している.しかし,少なくともいくつかの道徳的規範は,他の条件が等しいならばデフォルトで採用される規範であり,社会的文脈はどのような場合に「他の条件が等しい」とされるかについて関連すると考えることは可能.異なった道徳体系は異なるデフォルト規範を持つという主張と,異なった道徳体系は同一のデフォルト規範を持ち,社会的文脈よって異なる相互作用を示すという主張とを区別することは困難.
4. ある種の規範は,ひとびとに明示的に知られることなく,道徳的判断のなかに非明示的に表れることがある.二重効果原理の非明示的な受容が広範なものであり,一般のひとびとがその原理について明示的な知識がなく,明示的な教示によって伝達されないのだとしたら,この原理が生得的で普遍的なものであると示唆される

6.1.2 原理とパラメータ
原理とパラメータモデルは普遍的な道徳原理と,道徳体系ごとのばらつきを可能とするパラメータを含む.Sripadaはこのモデルを支持する二つの議論を区別している.ひとつは,刺激の貧困.もうひとつは様々な道徳体系間の共通性と多様性.

6.1.2.1 刺激の貧困
Sripadaは刺激の貧困からの議論を二つの点で退けている.ひとつは,道徳は,学習のターゲットとして言語よりも「はるかに単純である」という点.さらに道徳は言語よりも学習リソースにおいて「比較できないほど豊か」であるという点.

コメント
1. 刺激の貧困による議論は SI モデルに対しても適用することができるかもしれない
2. 道徳がどの程度単純なものかは明らかではない.(言語と比して)道徳の構造に関する説明の端緒にもついていない.
3. 道徳原理の獲得のための学習リソースが十分かどうかは,そうした原理が明示的に他者から教示されているのか,あるいは,単に他者の判断の中に非明示的に含まれているのかによる.複雑怪奇な文法原理と同様に,二重効果原理はひとびとが意識して,子供に教えらえるようなものではない.

    • 功利主義的な道徳においては二重効果原理が受け入れられないため,二重効果原理は普遍的な原理ではないという主張があるかもしれない.しかし,エスペラント語のような人工言語や,普遍文法の原理に違反するピジンの存在が,普遍文法と整合的であるのと同様に,功利主義のような人工的な道徳体系と普遍的な道徳原理は整合的である.普遍道徳は子供が通常の方法で獲得することのできる道徳を特徴づけるものである
    • 普遍文法の原理を満たさないピジンを話す両親のもとに生まれた子供は,ピジンを獲得せずに,普遍文法の原理を満たすクレオールを代わりに獲得する.功利主義の両親のもとに生まれた子供が,二重効果原理のような非功利主義的な原理を含む道徳体系を自然と獲得するかどうかは興味深い
    • 人工的だからといって功利主義に反対しているのではない
    • 他者との相互作用は必要だが,第一言語を獲得するのと同様に,第一道徳を獲得する際に,明示的な教示が必要だとは考えにくい.聴者の両親のもとで育ったろうの子供が普遍文法を満たす手話を「発明」するのと同様に,他者と相互作用する子供が普遍的な道徳的制約を満たす道徳体系を「発明」する可能性は高い

6.1.2.2 危害規範の多様性のパターンを説明する
単一のグループGのメンバーには危害を与えるなという普遍原理,および,Gが様々に設定されうるようなパラメータが提唱されているが,Sripadaによれば,変異のパターンはそれ以上に複雑で,微妙であり,少数の離散的で厳密なパラメータでは説明できず,最良の説明は「テーマ的クラスタリング」であるとする

コメント
1. PPモデルは,単一のグループGを特定する以上の追加的なパラメータや要素を含むことができる
2. Gのメンバーへの危害の禁止はおそらくデフォルトの原理であって,絶対的な禁止ではない.Sripadaが議論している変異は,道徳体系の他の違いによるものかもしれない.特定のケースの評価には,現状よりもより明示的な道徳体系の説明が必要とされる.

    • Dworkin (1993) の議論している例にもPPモデルが関係しているかもしれない.Dworkinによれば,ひとびとは一般的に,胎児に象徴されるような人間の生命の持つ神聖な価値を受け入れているが,胎児がいつその聖なる価値を持ち始めるのか,そしてその他の価値と比べてどのくらいその聖なる価値が高いのかについて意見が分かれるのだという

6.1.3 道徳心理学:言語アナロジー

  • 道徳と言語のアナロジー,あるいは言語学道徳心理学のアナロジーが有望かどうかについて
  • 人間の言語は,その他の動物のコミュニケーションシステムと複雑さにおいて比べるべくもない.同様に,人間の道徳をその他の動物の社会的側面の延長として理解することは,道徳の解明に寄与しない可能性がある
  • 上述のように,ひとの道徳的推論はひとびとが意識していない複雑な原理に感受性がある.このような原理がどのようにして獲得されるかは明らかではないが,ひとつの可能性は,「道徳能力」moral facultyとしてあらかじめ埋め込まれているというものである
  • 社会的慣習の受容によって道徳性(あるいは言語)が決定されるという理論もあるが,これらには様々な難点があり,分析の単位は主体の内的な状態 I-morality (I-language) でなければならないことを示唆する
  • アナロジーにおける困難は,表面的なものではない道徳原理を見出すことが可能かどうかである.表面的な原理が衝突する際に,結果を決定づけている原理はなんだろうか? そうした原理が見出されれば,それが「道徳文法」を構成する
  • Darley and Shultz (1990) による重要なサーヴェイ “Moral rules: Their Content and Acquisition”は多くの哲学的議論に言及している.J.L. Austin (1956) “Plea for Excuses”, Hart and Honore (1959) Causation and the Law, Thomas Aquinas の二重効果原理…
  • 現在,多くの被験者を用いて(fMRIの有無にかかわらず)道徳的判断の経験的研究が行われているが,これは最善のアプローチではないかもしれない.すくなくとも生成文法が発展してきた方法ではない.言語学者が携わってきたのは,何が文法的かについての自らの感覚を説明する明示的な規則を書き下すこと
  • 同様の研究戦略がどの程度道徳研究で可能かは興味深い.もっともストレートな方法は,みずから の道徳的方言 (I-morality) である道徳的感覚を規則や原理の形で明示的に特徴づけること.伝統的な決疑論 casuistry (社会の慣行や教会などの律法に照らして行為の道徳的正邪を決めること)や哲学的説明を精査することから始めるのも良いかもしれない.そのようにして発見された原理が,一般的に表出されるようなものではなく,道徳獲得において利用可能でないようなものならば,その獲得の説明として生得性が説得力をもつかもしれない.しかし,道徳文法の構築に先行してこのような可能性を評価することは難しい

6.2 道徳的刺激の貧困
John Mikhail

Sripadaの道徳的刺激の貧困からの議論 (Mikhail, 2000, 2002a; see also Dwyer, 1999; Harman, 2000a; Mahlmann 1999; Mikhail, Sorrentino & Spelke, 1998; Nichols, 2005) に対する批判は,二つの誤った前提に立っている.ひとつは,道徳的認知の理論における学習ターゲットが「おもちゃを共有すべし」とか「他の児童を打つべからず」というような単純な命令文から成っているという前提.もうひとつは,第一の前提から帰結するもので,子供に利用可能な環境リソースがこうしたルールの獲得を説明するのに十分であるという前提.

6.2.1 道徳獲得のターゲットは単純か?

  • 獲得モデルの出力の複雑性(あるいはその欠如)こそが,刺激がそれに比して貧困かどうかを決定するものなのだから,Sripadaの最初の前提は重大なものである.
  • Sripadaが不当にも無視した「記述的妥当性」descriptive adequacyの問題を考察してみよう.明らかに,この問題は道徳的生得説の問題に論理的に先行するものだ.なぜなら何が学習されるのかについてはっきりとした理解がなければ,生得説をとるかどうか以前に,学習理論を定式化すらできないからだ.これはRawls (1971) が強調したように,難しい問題で,熟慮された道徳的判断のクラスと,それが導出されてくるところの原理のクラスを同定しなければならない.熟慮された判断とは,道徳的能力がゆがみなく反映されるような判断 (Rawls, 1971, p.47) を指す述語であり,心のモジュール性についての前提を必然的に伴う定式化である (Mikhail, 2000).さらに,「導出」はここでは文字通りの意味を持つ.すなわち,演繹的法則論的な説明である,あるいは,被覆法則のもとでの演繹的包摂による説明であるということ (Hempel, 1966).
  • なげかわしいことに,ほとんどの理論家は,道徳的能力をこうした様式で記述しようとはしておらず,分野はいまだにまともな科学として確立されていない.このような方法で,問題にアプローチしようとすれば,すぐに,人間の道徳的直観が複雑で,Sripadaが同定したような初歩的な規範をはるかに超えた概念や原理に基づいていることは明らかになる.こうした知識は明示的な教示,あるいは模倣や社会化などでは説明できないことから,生得性の根拠となる (Dwyer, 1999; Mikhail, 2000)
  • 3-4歳児は,意図や目的といった概念を用いて,同一の結果を持つ二つの行為を区別する (Baird, 2000).また,3-4歳児は「真正の」道徳的違反と社会的慣習の違反とを区別する (Smetana, 1983; Turiel, 1983).4-5歳児は主犯と従犯に対する適切な罰の程度を比例原理を用いて決定する (Finkel, Liss & Moran, 1997).5歳児は過失と賠償に対する複雑な理解を示す (Shultz, Wright & Schleifer, 1986)
  • 「木の根っこを狙っている」という誤った信念のもとでひとを射殺してしまった男と,「殺人は悪くない」という誤った信念のもとでひとを射殺してしまった男,どっちが悪いか? 5-6歳児は法の誤解と事実の誤解の区別を行い,誤事実信念は免罪されうるが,誤道徳信念はそうではないという判断を行う (Chandler, Sokol & Wainryb, 2000).… 8歳児は,トロッコ問題において,5人を救うために1人を犠牲にすることを許容する.しかし,これは,選んだ手段が間違っていないとき,かつ,悪い効果が良い効果に対して不釣り合いでないとき,かつ,他のより良い代替手段がないときに限る.すなわち,二重効果原理に従うときに限る (Mikhail, 2000, 2002a)
  • こうしたケースを説明するためには,我々は,無意識の知識と複雑な心的計算を,子供に帰属させなければならない.トロッコ問題の場合は,目的,手段,副作用,殴打battery のような性質に基づいて,新しい事実のパターンを表象し,評価しなければならない (Mikhail, 2002a, 2005).これらが明示的な言語による教示や環境における例示によって獲得されたとは考えがたい (Harman, 2000a; Mikhail, 2000)

6.2.2 道徳はどの程度多様なのか?

  • ここまでで個体発生の問題に焦点をあて,「普遍道徳文法」(Universal Moral Grammar: UMG) の存在を擁護してきた.これは子供の初期の経験から,道徳能力の成熟状態を構成する原理システムへのマッピングを行う生得的関数あるいは道徳獲得装置である(Mikhail, 2000, 2002a, 2002b; Mikhail, Sorrentino & Spelke, 1998).道徳の多様性に目を向けた場合,別の問題が浮上してくる.言語においては,普遍文法は獲得が可能である程度に十分に豊かで特定されたものでなければならない(説明的妥当性)一方で,様々な言語環境において異なる文法を獲得できる程度に柔軟でなければならない(記述的妥当性)
  • 道徳的能力においても,同様の記述的妥当性と説明的妥当性との間の緊張が存在するかどうかは明らかではない.答えるべき問いは,(1) ひとびとが実際に獲得する規則の体系あるいは「道徳文法」の性質はどのようなものか? (2) それらはどの程度多様なものか? である.Sripadaは「PPモデルが調停できないほど道徳規範の内容は集団間で多様性を示す」と示唆しているが,支持できない.道徳と言語の表面的な比較によっても,道徳的能力は言語能力よりもより制約されていることがわかる.言語直観のシステムは互いに異なるだけではなく,互いに理解不能なものである.英語圏で育った子供には,日本語やアラビア語の文が文法的であるかどうかどころか,語の境界すら判別がつかない.道徳の領域ではこのようなことは生じない.同一のイベント(たとえば,男が木の根っこと思ってひとを撃つ)は,文化の違いに依らず,しばしば同様の直観を引き起こす (Mikhail, 2002b)
  • さらに,ひとびとは行為をどのような主要素から分析するかについて一致を見せることが多い.「行為,意図,動機,原因・結果,直近・関節的結果,物理的・非物理手的環境」.もしSripadaが正しく,道徳的直観や,その概念的なブロックがあまりに多様であるならば,国際人権法のようなものは不可能になってしまう.国連人権宣言や国際刑事裁判所…などは実際の現象であり,理論はこれに整合的でなければならない.これらは,道徳的直観がある程度共有されていることを明らかにする

6.2.3 道徳的規範の分析性・総合性について

  • Sripadaは「殺人は間違っている」といった規範は分析的に真であるため,規範の内容を非規範的な語彙で枠づける必要があると主張している.しかし,ここには2つの誤りがある.ひとつは,「殺人は間違っている」のような命題は,LockeやHumeが強調したように,分析的ではなく,総合的であり,これは刑法にも示されている.もうひとつは,どのような状況で意図的な殺人が正当化あるいは免罪されうるかはSripadaが示唆するほど多様ではない.実際,人類学および比較刑法学の文献によれば,事実の誤解,必要性,自己防衛,他者の防衛,脅迫,錯乱,挑発など類似し一貫した有限のリストに限定される.また,共通部分はゼロではない.すべての国家が許容するような殺人,そして,すべての国家が糾弾するような殺人が存在する (Mikhail, 2002b)
  • 最後に,「殺人は間違っている」が総合的な命題であるという事実は,その他の道徳的・法的禁止(盗み,殴打,レイプ,詐欺)にも共通の性質である.被定義項は複雑であるが,非規範的な語彙で説明可能である.どの概念も,特定の行為,心的状態,正当化・免罪条件の欠如の集合によって構成されている.この観察の重要性は強調すべきだろう.これは,道徳的判断は知覚プロセスのレベルにおいても刺激の貧困を示すことを意味する.「反応を引き起こす近接刺激に含まれる以上の情報が知覚的反応に存在する.したがって,知覚する生体からの情報の寄与によって知覚的統合が行われなければならない」(Fodor, 1985, p.2).モジュールに関する探求が必要
  • 道徳心理学は,ひとびとが実際に行う直観的な道徳的判断の基礎をなす道徳的能力のシステムを,出来る限り正確に,分離し,記述し,それを心理主義的な枠組みの中でおこなわなければならない.この観点および現在の証拠からすれば,Sripadaの刺激の貧困説の棄却は尚早で根拠がないものである


6.3 HarmanとMikhailへの返答
Chandra Sekhar Sripada

  • どちらも,道徳獲得は言語獲得に比べの学習ターゲットが単純であるという主張を批判している.けれども,ふたりの指摘と著者の主張はすれちがっているかもしれない
  • ターゲット論文の最初で「能力生得説」と「内容生得説」の区別を行った.前者は,道徳判断にとって重要な「心の理論」「行為の理論」が、生得的である(Hauser, 2006)とするもの.これは,論争の余地がなく,著者も同意するものであるから,扱わなかった
  • 「心の理論」や「行為の理論」は,道徳的判断,道徳的意思決定をを促進するものかもしれないが,他の認知領域においても役割を果たす.たとえば,(1) 男は,女性を切り付け女性のお金を盗むために,ナイフを使った (2) 子供は,レモンを切り付けレモネードを作るために,ナイフを使った の2つのシナリオを理解するためには,「心の理論」や「行為の理論」などが必要になるだろうが,こうした能力基づいた計算が道徳的判断へとリンクするのは前者のシナリオのみ.「心の理論」や「行為の理論」は視覚系のように,道徳的判断に用いられるが,道徳的領域に特異的なものではない
  • 内容生得説において重要になってくるのは,たとえば,何が危害か,誰が危害から守られるべきか,どのような危害か,どのレベルの危害か,といった問題で,これらが示す文化的多様性.どのような背得的構造がこうした共通性と多様性の複雑なパターンを説明できるか?
  • HarmanもMikhailもこうした能力生得説と内容生得説の区別に注意を払っていない.行為の分節化に対するMikhailの主張は,「行為の理論」に関する能力生得説についての主張で,これは著者も同意するが,内容生得説に関する著者の主張には直接関係しない
  • Mikhailによる動機や信念や意図に基づく子供の道徳的判断のデータも,「心の理論」に関する能力生得説の主張であり,内容生得説に関する著者の主張には直接関係しない
  • HarmanとMikhailはともに,二重効果原理について言及している.ここでMikhailはふたつの生得性の主張をしている.ひとつは,目的,手段,副作用,殴打のような抽象的な性質のもとで,イベントを分節化する能力についての生得性の主張.もうひとつは,二重効果原理の内容そのものについての生得性の主張
  • 前者は,「心の理論」や「行為の理論」に基づく能力.子供が教えられることなく,こうした理解を行うのだとしたら,これらの能力は生得的であると言える.これは能力生得説に関する主張で,内容生得説に関する著者の主張には直接関係しない
  • 後者は,内容生得説に関する主張.著者は,二重効果原理が生得的であるとするHarmanやMikhailの主張に譲歩してもよいが,この譲歩が何を意味するかについては,注意が必要
  • ターゲット論文の目的は,道徳的規範の内容の文化間の共通性と多様性のパターンについて,IBモデルがもっともよく説明できることを示したもの
  • IBモデルは,すべての領域におけるすべての道徳的規範の内容を形成するすべての生得的構造についての例外なしの説明を与えることを意図したものではない.二重効果原理についてIBモデルが説明を与えることが出来ないとしても,このモデルを棄却すべきであるわけではない.多くの道徳的領域を見渡した時にIBモデルが最善の一般的説明を与えることができるという事実は残るのである