人間なんて自動機械にすぎなくなくない? あるいは存在の耐えられない自動性について

Are We Free?: Psychology and Free Will

Are We Free?: Psychology and Free Will

Baer, J., Kaufman, J., & Baumeister, R., eds. (2008) Are We Free?: Psychology and Free Will (Oxford University Press)
2 Nichols, S. "Psychology and The Free will debate" (えめばら園)
4 Dweck, C. & Molden, D. "Self-Theories: The Construction of Free Will" (えめばら園)
8 Kihlstrom, J. F. "The Automaticity Juggernaut -- or, Are We Automatons After All?"  ←いまここ
10 Roediger III, H.R. , Goode M.K., and Zaromb, F.M. "Free Will and the Control of Action" (noscience!)
12 Dennett, D. C. "Some observation on the Psychology of Thinking About Free Will" (スウィングしなけりゃ脳がない!;抄訳)
13 Howard, G. S. "Whose Will, How Free?" (えめばら園)

  • 科学的心理学のパイオニアである William James は,La Mettrie (1748/1749) による「自動機械論」(「人間は意識的な自動機械であるが,どのみち自動機械であり,それゆえ,デカルトの人間と機械との区別は消去される」)について考察し,「習慣は人生の多くの部分を占める」(p.109) のは確かであるが,「ア・プリオリな,そして疑似形而上学的な根拠から,自動機械理論を我々に当てはめるように迫るのは(そして実際迫られているのだが)心理学の現状からすれば,認めがたく不適切である」(p.141) と結論づけた.
  • James は自動機械論に懐疑的であったが,自動機械論の正しさを証明するかもしれない科学的証拠にはオープンだった.一部の心理学者によれば,ついにその時が来た.1999年,American Psychologist は “Behavior – It’s involuntary” と題した特集号を出版し,自動性の概念を「動機や自由意志,行動の制御を理解する上でのブレークスルー」であるとした.日常生活において我々は実際は自動操縦状態なのだという.
  • かつては,心理学者は無意識や自動的な過程は例外的であると考えていたが,現在では,自動的な過程ことそが規範的原則であり,意識的な制御こそが例外であると理解している.このような状況は,どのようにして,何故,生じたのだろうか?

自動性のルーツ

  • 自動性の起源は特にストループ効果を中心とした注意の研究 (Kahneman, 1973; MacLeod, 1991) に起源を持つ.読字や視覚探索の研究も自動性の概念の洗練に貢献した (LaBerge & Samuels, 1974; Posner & Snyder, 1975…).1970 年代の終わりには,認知心理学者は,自動的な情報処理と制御された情報処理の違いについて合意を持っていた.
  • 自動的な処理は以下の特徴を核として持つ
    1. 不可避の誘起 (inevitable evocation):自動的な過程は,主体の意識的な意図や,注意の配分,心構えに関わらず,特定の環境刺激が現れることによって,不可避に生じる.
    2. 修正できない完遂 (incorrigible completion):自動的な過程は一度誘起されると,主体が制御しようとしても,弾道のように完遂されてしまう.
    3. 効率的な実行 (Efficient execution):自動的な過程は,注意のリソースを消費せず,努力を必要としない
    4. 並列的な処理 (Parallel processing):自動的な過程は,他の実行中の過程に干渉せず,それらから干渉されることもない.例外は,他の処理と入力あるいは出力のチャンネルについて競合する場合(ストループ効果)
  • Hasher & Zacks (1979) は,自動的な過程が意図から独立なだけではなく,情動状態,散漫,ストレスといった,いかなる個人的あるいは環境的条件からも独立であると主張し,自動性の概念を拡張した.また,自動的な課題のパフォーマンスは,覚醒度や知性のような個人差,あるいは,人種,民族,社会経済状況といったグループ差からも独立していると主張された.
  • 自動性についての現代の概念は,反射や本能といった解発刺激に対する不随意な反応に関わる生物学的・行動学的な起源を持っている.また,古典的・道具的条件付けの分析にも起源がある.したがって,生得的に特定された自動的な過程も存在する一方で,習慣による自動化も存在するとされる.こうした自動的な過程は注意のリソースを消費しないため,意識的にアクセス可能な痕跡を記憶に残さない.こうした自動性の概念の受容によって,無意識的な心的生への関心が復活した (Kihlstrom, 1987; Hassin, Uleman & Bargh, 2005).すくなくとも理論的には,語の厳密な意義からして,自動的過程は無意識なものである.意識することはできないし,意識的に制御することもできない.

認知心理学から社会心理学へー更に

  • 自動性の概念は,認知理論における重要な進展であり,注意の初期選択理論と後期選択理論の論争を解決した (Pashler, 1998).初期選択理論によれば,前注意的で,前意識的な処理は刺激の物理的性質の分析に限定されている.意味の分析には,注意を意識的に配分することが必要とされるのである.一方,後期選択理論によれば,意味の分析も前注意的に行われる.自動性理論は,処理が自動化されている限りにおいて,複雑で意味的な分析が前注意的に,したがって前意識的に可能であると考える.自動性理論は,発展に従い,注意理論とは分離し,記憶の観点から再解釈された (J.R. Anderson, 1992; G.D. Logan, 1998).さらに,認知心理学者は過程分離法 (process-dissociation procedure: L.L. Jacoby, 1991) のような実験パラダイムを発展させ,自動的な過程と制御された過程がどれだけ課題成績に貢献しているかを推定することが可能となった.
  • 認知心理学での受容に伴い,自動性の概念は性格心理学や社会心理学の領域にまで広がった.たとえば,Nisbet and Wilson (1977) は我々が心の内容(信念や態度など)には意識的に気づくことができるが,その内容を生み出すところの心の過程には気づくことができないと述べたとき,自動性が念頭にあった.
  • Taylor and Fiske (1978) は,ひとびとは「認知的倹約家」であり,制約された認知容量の元で作動しており,理由があり思慮に富んだ価値判断よりも「頭に浮かんだ」判断に飛びつきやすいと論じている.Smith and Miller (1978) は Nisbett and Wilson (1977) へのコメンタリ―の中で,自動性の概念に初めて明示的に訴えた最初の論者である.彼らによれば,内観アクセスの限界は,顕著な社会刺激が自動的に処理され反応されるからであるという.
  • これ以降,多くの社会心理学者が明示的に自動性の概念に訴えて,態度や社会的判断についての実験をデザインし,解釈し始めた (Higgins and King, 1981; Bargh, 1982; Bargh & Pietromonaco, 1982).
  • 1980年代の終わりには,性格心理学,社会心理学の幅広い分野で自動性の概念が適用されるようになった.Uleman and Bargh (1989) による記念的な編著は自動的で意図されない思考の役割についての章を設けている.

勢いづいた自動性の破壊勢力

  • 1989年以後,自動性の概念は性格・社会心理学において著しく繁栄した (Bargh, 1994).1975年以前では,データベース PsycINFO で,自動的 automatic あるいは自動性 automaticity の語がアブストラクトに出現する論文は 29 本だけだったが,1980 年までに 6 本が追加され,1980 年代には 40 本,1990年題には 115 本,そして,2007 年までに240本が追加された.
  • 1997 年には Journal of Experimental Social Psychology,2001 年にはJournal of Personality and Social Psychology が自動的な過程についての特集を組み,その間に Greenwald, Banaji らが自動的な連合に基づいて隠れた偏見を明らかにする Implicit Association Test を開発した (Greenwald, McGhee & Schwartz, 1998; Nosek, Greenwald & Banaji, 2005).
  • もちろん,自動性の概念は認知心理学でも人気があったが,認知心理学者は,自動的な過程と制御された過程の区別を維持し,それらが課題成績に貢献する程度を検証するために多くの努力を費やした (L.L. Jacoby, 1991).当初は,社会心理学者もこれに従い,態度,説得などの二重過程理論が生まれたが (Chaiken & Thorpe, 1999),こうしたバランスのとれた観点は,より単純な自動性への関心にとってかわられた.たとえば,Gilbert (1989, p.189) は,「他者について軽く考えること」の利益を論じた.Bargh (2000, p.938) は,意図的に制御された行動も究極的には自動的であり,「自動的に作動する過程」によって「制御され,決定づけられている」と論じた.一部の社会心理学者は,社会的相互作用における自動的な過程と制御された過程の異なる役割についてのバランスのとれた観点をとるよりも,むしろ社会的な思考や行為はほとんど自動的な過程に尽きるという見方を取るようになった.
  • この発展の過程は,社会心理学における自動性の推進者である Bargh の仕事に見ることができる.1984 年における「自動性の限界」という論文では,Langer における社会的相互作用が無思慮に進行するという立場に批判的であった.しかし,その 5 年後には,彼の立場は大きくシフトし,自動的な過程を制御された過程に優越させる見方を取っている (Bargh and Uleman, 1989).その一年後には,さらに歩みを進め,自動性は情報処理システム全体にいきわたっており,自動的に誘起された心的表象が自動的に対応する動機を生成し,それが自動的に対応する行動を生成するという見方を提唱している (Bargh, 1990; Bergh & Gollwitzer, 1994).
  • Bargh は「存在の耐えられない自動性」を主張し,「多くのひとびとの日常的生活は,意識的な意図や熟慮された選択によるものではなく,環境の特性により発動される心的過程によって決定されており,意識的な気づきや導きの外側で作動しているのだ」(Bargh & Chartrand, 1999, p.462)
  • Bargh の最も新しい彼の立場を表明した論文は「社会的生活の自動性」(Bargh & Williams, 2006) と題されており,より穏当で適切であろう「社会的生活における自動性」ではない.我々が行動を制御しているという印象は,全体のおよそ 0.56% の稀な機会が強く記憶されることによる幻想であるという.

Social Psychology and the Unconscious: The Automaticity of Higher Mental Processes (Frontiers of Social Psychology)

Social Psychology and the Unconscious: The Automaticity of Higher Mental Processes (Frontiers of Social Psychology)

無意識と社会心理学―高次心理過程の自動性

無意識と社会心理学―高次心理過程の自動性

破壊勢力に飛び乗って

  • 自動的な過程が経験・思考・行為を決定づけていると考え,熟慮された意識的な活動を周縁へと追いやろうとしているのは Bargh だけではない.Wegner and Schneider (1989) は自動的な過程と制御された過程とにおける「心的機械の中の幽霊の戦い」を描いているが,前者が優勢であることを示唆している.「歯磨きをしたいとか,飛び跳ねたりしたいときは,そうできる.けれども,心を制御したいときには,まったくうまく行かないことに気付くだろう.心についてのあらゆることのチャンピオンであるウィリアム・ジェームズでさえ,意識に注目することで心理学が奇行の飛び跳ねるグラウンドになってしまう可能性があることを警告している」(p. 288)
  • 無意識の,自動的な過程に熱中するあまり,こうした著者らは James を誤って引用している.James が無意識的な思考についての批判を 10 点挙げたあとで,「無意識的な心的状態と意識的な心的状態の区別は,心理学において自らの好むことを信じ,科学になりつつあるものを奇行の飛び跳ねるグラウンドへと変えてしまう効果的な手段である」(1890/1980, p.163) と書いたことを考えると,「奇行の飛び跳ねるグラウンド」になってしまうのは「無意識」であろう
  • にも関わらず,Wegner は The Illusion of Conscious Will と題した本を出版した.
    • 「行動の真なる因果的メカニズムは意識のなかには存在しない.むしろ,因果のエンジンは,我々に姿を見せることなく作動しており,おそらく心の無意識なメカニズムによるのだろう.日常的な行動において自動的な過程が根本的な役割を担っていることを示唆している近年の研究 (Bargh, 1997) の多くは,こうした角度で理解できる.人間の行為の真の原因が無意識であるならば,行動が,自動性の実験で見られるように,しばしば主体がその原因に意識的に気づくことなく生じることは驚くべきことではない」(2002, p. 97)
  • Wegner の本では,「実際の因果パス」が「思考の無意識な原因」と「思考」との間に引かれ,また,「行為の無意識な原因」と「行為」との間に引かれている.そして,「思考」と「行為」との間には「見かけ上の因果パス」が引かれるのみである.
  • 同様に,T.D. Wilson も,外界の実際の状態に対してより調整された無意識的な過程とインターフェイスを持つがゆえに,意識的な処理は非適応的であると示唆している.
    • フロイトの無意識への観点は,あまりに限定されている.彼は意識は氷山の一角に過ぎないといったが,意識は氷山の一角の上に乗った雪玉の程度のものに過ぎない.心は,高次の洗練された思考を無意識へと追いやることでより効果的に作動するのだ…」(2002, pp. 6-7)

The Illusion of Conscious Will (Bradford Books)

The Illusion of Conscious Will (Bradford Books)

自分を知り、自分を変える―適応的無意識の心理学

自分を知り、自分を変える―適応的無意識の心理学

  • 自動性の破壊力はアカデミックな心理学を超えて,影響力を及ぼした.Sandla Blakeslee (New York Times の科学欄担当) による記事 (2002),Gilbert や Wilson の仕事に触れた Malcom Gladwell (New Yorker のライター)による著書 Blink など.
    • 「結論へとジャンプしやすい僕たちの脳の一部は,適応的無意識と呼ばれ,この種の意思決定の研究は,心理学における最も重要な新分野である.適応的無意識は,フロイトの無意識と混同してはならない.フロイトの無意識は,意識的な思考にのぼらせるにはあまりに不穏な欲望や記憶,ファンタジーに満ちた,ほの暗く怪しい場所である.適応的無意識はそうではなく,人間として機能するために必要な多くのデータを速く静かに処理する大きなコンピューターのようなものである」(Gladwell, 2005, p.11)
  • Gladwell の著書は,New York Times のノンフィクションのベストセラー・ランキングに18か月載り続け,自動性概念の人気を実証した.これに対する批判 (LeGault (2006) Think: Why Critical Decisions Can’t Be Made in the Blink of Eye) やパロディ(Tall (2006) Blank: The Power of Not Actually Thinking at All)なども出版された.

Blink: The Power of Thinking Without Thinking

Blink: The Power of Thinking Without Thinking

第1感 「最初の2秒」の「なんとなく」が正しい

第1感 「最初の2秒」の「なんとなく」が正しい

3.5番目の非連続性?

  • 実験的証拠は,社会的認知や社会的行動において,ある条件では,自動的な過程が何らかの役割を果たしていることを示している.しかし,こうした制限された結論を超えて,あらゆる人間の経験・思考・行為にまで自動性の教義を拡張すべきなのか?つまり,意識的な気づきはほとんど後知恵にすぎず,意識的な制御は幻想であると.こうした観点によれば,人間は,特殊なクラスのゾンビであり,La Mettrieが論じたように,意識的ではあるが,そうした意識は思考や行為にほとんど機能的な役割を果たしていないようなオートマトンであると.意識の目的は,何故ものごとはそのように生じたのか,何故我々はそのように行為したのかについての個人的な理論を作ることであり,実際に生じていることにはほとんど無関係であるということになる.Bargh はこの点を簡潔に論じている「スキナーが正しく指摘したように,心理学的現象の状況的原因について知れば知るほど,そうした現象を説明するために内的で意識的な媒介過程を仮定する必要がなくなる」(1997a, p.1)
  • 科学の進歩は,その本性からして,世界がどのように動いているかについての大衆的な誤解を修正し,驚くべき,ときに不快な真理をつきつけることがある.フロイトは自らをコペルニクスに連なるものとして認識していた.地球が宇宙の中心にないことを明らかにしたコペルニクス(一番目の非連続性の消去),人間が他の生物同様に自然の産物であることを明らかにしたダーウィン(二番目の非連続性の消去)に続き,フロイトの発見(と彼が主張するもの)は意識的な経験・思考・行為が無意識の原初的な原動力によって決定づけられているとするものだった.
  • Bargh は明らかに彼自身をこうした科学の進展に連なるものとして位置づけ,フロイトの非合理な「イドからのモンスター」を,必ずしも非合理ではないが自動操縦で作動し意識的な熟慮には影響されない人間観で置き換えた.彼によれば,「我々は思うほどに意識的でも自由でもないのである」(Bargh, 1997a, p.52).それゆえ,我々は「存在の耐えられない自動性」と共に生きていかなければならないのだ (Bargh & Chartrand, 1999).
  • Bargh と同様に,Wegner & Smart (1997) は,フロイトの非合理性を自動性へと置き換えて三番目の非連続性を消去した.人間と機械との間の,四番目の非連続性も人工知能の発展によって消滅すると考えるものもいる (Mazlish, 1993; Kurzweil, 1999).
  • しかし,自動性の教義は,正しくない,あるいは,すくなくとも,確固たる科学的証拠に基づいていない.三番目の非連続性がまだ消去される見込みはないと考える理由は三つある.
  • 最初の理由は,パラドキシカルなことに,自動性概念の理論的基盤が解明されつつあるからである (G.D. Logan, 1997; Moors & DeHouwer, 2006; Pashler, 1998).特に,自動性概念が起源とする注意のリソース理論が疑問に付されつつある.たとえば,単一の注意のリソースは存在しないようである.また,課題の過度の訓練を行っても,パフォーマンスに努力が必要なくなることはないということも分かってきた.注意の容量が制約されていないこと,あるいは,すくなくとも,その限界は非常に広いということも分かってきた.先述したように,注意ではなく,記憶に基づいた別の自動性の理論も現れており,そうした理論は今でも正当性を失っていないが,自動的な過程が持つと目されている性質には不利に働く.たとえば,J.R. Anderson (1992) の手続き化の観点では,特定の目的状態の文脈において適切な手がかりが提示された場合にのみ,自動的な過程は作動する.また,Logan (2002) のインスタンスに基づく理論では,自動的な過程は,被験者が適切な心的状態にあるときにのみ作動する.さらに,自動的な過程は,必ずしも終着点まで邪魔されずに進行するわけではない.
  • こうした状況に対するひとつの反応は,自動的過程と制御された過程との差異は量的なものであるとするもの (Bargh, 1989, 1994).これは,ほとんど正しいが,どの過程が自動的かを知ることが難しくなってしまう.たとえば,ある過程が意図せず作動したが,それでも注意の容量を消費しているような場合,どうなるのか? そして何らかの課題が多かれ少なかれ自動的に実行されると譲歩することで,「社会的生の自動性」というメッセージ (Bargh & Williams, 2006) のもつインパクトは切り崩される.
  • さらに,二つ目の理由として,自動性の連続的仮説に伴って,心理学実験における概念の操作化にもズレが出てきた.初期の実験では,両耳分離聴 (Bargh, 1982) や周辺視野提示 (Bargh & Pietromonaco, 1982) を行い,自動性の操作的定義に厳密に従う努力が見られたが,近年の研究では,こうした努力が放棄されている.たとえば,被験者に明瞭に語を提示し,それを発音するように求めたり (Bargh, Chaiken, Raymond & Hymes, 1996),それを用いて文を組み立てるように求めたりする (Bargh, Chen & Burrows, 1996).こうした課題は,明らかに意識的な処理を伴い,認知心理学における当初の自動性の概念からは逸脱している.
  • 実際,社会心理学においては,自動性の概念は,被験者が実験者に課された主課題に対して偶然的な incidental 処理(シャドウィング,視覚刺激の探索,語の発音,文の組み立て)が関わる場合に用いられるようである.しかし,偶然的に処理されるからといって,必ずしも,非意図的に処理されるわけでも,さらには自動的に処理されるわけでもない.多くの状況では,処理容量は残っており,それを用いて,かなり熟慮して,他の課題に取り組むのである.たとえば,実験のカヴァー・ストーリーを批判的に分析したり,実験者の真の目的を推測したり (Orne, 1962).
  • 三つ目の理由として,もっとも重要なことに,自動性に関する社会心理学の文献は,自動的な過程と制御された過程のそれぞれの強さを実際に比較することがほとんどない.認知心理学では,それぞれの過程を直接比較する試みに関心が払われていた.たとえば,Jacoby et al. (1997) は,PDPを用いて,再認の成功が,若い被験者では制御された想起に依存するが,年配の被験者では自動的な親近性に依存することを明らかにしている.PDP にも批判はあるが (Curran & Hintzman, 1995),ポイントは,認知心理学者は,それぞれの過程の双方が課題に貢献していることを前提とし,それらを解きほぐそうとしているということ.社会心理学においてポピュラーな見方では,制御された過程はほとんど関係ないというもの.
  • 実際,PDP のような方法を用いて,社会心理学的な課題におけるそれぞれの過程の強さを比較する研究はほとんど存在しない.PDP を用いた数少ない社会心理学研究である Uleman et al. (2005) によれば,被験者に,ターゲットとなる個人の写真と行動の記述とを見せ,直後,あるいは20分後,2日後に,ターゲットの性格特性について質問を行った.「包含」条件では,行動の記述はターゲットの特性に関係があり,これを考慮するように被験者は伝えられた.「排除」条件では,行動の記述はターゲットの特性とは関係がなく,それを無視するように被験者は伝えられた.この「反対法」method of opposition によって,自動的な過程と制御された過程とを分離し,それぞれの貢献を定量化することが可能になる.その結果,直後の特性判定では,制御された過程が自動的な過程を上回り,遅延後の特性判定では,制御された過程と自動的な過程は同等の貢献を示した.遅延が制御された過程のインパクトを減少させることは確かであるが,自動的な過程がより重要であると主張するにはほど遠い結果である.ましてや,制御された意識的な過程が後知恵であるとか,人間の経験・思考・意識に関係ないだとかは全く言えない.
  • 同様に Payne et al. (2005) は,PDP の変種を用いて,「武器同定効果」(不明瞭な物体は,白人よりも黒人に保持されている場合に,より武器として認識されやすくなる)に対する自動的な過程と制御された過程との関係を明らかにした.その結果,効果は制御された過程によって大部分決定づけられており,自動的な過程は,制御された過程が働かないときに判断をバイアスづけるという副次的な役割しか果たしていないことが分かった.この研究は,ステレオタイプが自動的に活性化され,それが制御された過程によって克服されなければならないとする,広く受け入れられているステレオタイプの自動性の二段階説を棄却するものである (see also Payne & Stewart, 2007).いずれにせよ,刺激提示から 500 ms 以内に反応を迫られているような状況で,自動的な過程が重要な役割を果たしていたとしても驚くには値しないだろう.

自動性の魅惑

  • 自動的な過程が社会的相互作用において役割を果たしていることは確かだが,自動的な過程が人間の経験のすべてを決定づけていると主張することには経験的証拠がない.
  • それでは,なぜ,一部の社会心理学者は,経験的に正当化されない,論理的に必然的でないステップをふむのか? おそらく,そのステップが経験的データに動機づけられていないならば,James が一世紀以上前に批判したような,ア・プリオリな,あるいは,疑似形而上学的な動機があるのではないか?
  • おそらく,自動性への熱狂は,社会心理学における「認知革命」に対する反動を反映しているのではないか.「認知革命」においては,社会的相互作用は,意識的で熟慮された合理的な思考によって媒介されるとする見方が暗黙にあり,たとえば,それはバランス理論 (Heider, 1946, 1958),認知的一貫性理論 (Festinger, 1957; see also Abelson et al., 1968),認知的代数学 (cognitive algebra; N.H. Anderson, 1974),初期の帰属理論 (Kelley, 1967) に反映されている.また,社会心理学における自動性への関心が,認知的な分析とは独立に環境刺激から自動的に情動状態が生成される (Zajonc, 1980, 1984) とする「情動反革命」と同時期に始まったのも偶然ではない.実際,Zajonc (1999) は自動性と情動とを明示的に結び付けている.
  • 社会心理学の生物学化も意識的な制御の役割を減じるのに貢献したかもしれない.社会的相互作用の特定のパターンの理由が利己的遺伝子にあるならば,意識的な,熟慮的な思考の余地はなくなる.また,社会的相互作用が他の種と共有された本能によるものであっても同様である (Barkow, Cosmides & Tooby, 1992; Buss, 1999).最後に,社会神経科学 (Cacioppo, Berntson, McClintock, 2000) は,意識的な思考や常識的な「素朴心理学」を行動の説明から締め出してしまうような還元論的な方向性を持っている.
  • 情動心理学と認知心理学が並行すること,社会相互作用の生物学的基盤の探求は,社会心理学におけるポジティヴな発展であるが,現在の自動性への関心には暗い側面がある.社会心理学の主流は,判断のエラー,規範の違反,社会的不正行動に集中している (Krueger & Funder, 2004).科学が反直観的な発見から学ぶことがあるのは確かであるが,ネガティヴなものの強調は,「ひとはばかである」学派へと堕しかねない (Kihlstrom, 2004a).つまり,我々の日常生活においては,ほとんどしっかりと考えることなく,バイアスやヒューリスティックといった判断のエラーに導く様なものに頼っているというものだ (e.g. Nisbett & Ross, 1980; Ross, 1977; see also Gilovich, 1991).こうした観点においては,非合理性は,判断におけるバイアスやヒューリスティクスの証拠だけではなく(これらは単なる限界合理性 (Simon, 1957) の証拠かもしれないから),無意識で自動的な過程の証拠によって示される.我々は,ものごとをあまり考えていないだけではなく,周囲でおこっていることや自らがしていることに注意をあまり払っていないのである (Gilbert & Gill, 2000).
  • また,我々はなぜそのように行動しているかも知ることがない (Nisbett & Wilson, 1997; T.D. Wilson & Stone, 1985; W.R. Wilson, 1979).思考や行動は,環境刺激に反応して,単に自動的に生じるだけであり,行為や思考を制御しているという信念は幻想であり,意識的な制御の試みはむしろ逆効果であり (D.M. Wegner, 1989),自動的な過程に頼ったほうがうまくいくのである (T.D. Wilson, 2002)
  • もうひとつの暗い側面は,長年にわたる,しかし,語られることのない,社会心理学と行動主義との同盟である (Zimbardo, 1999).Watson や Skinner が,行動が環境刺激の制御下にあると考えたように,社会心理学は歴史的に,個人の経験・思考・行為が社会的状況の影響下にあると考えてきた.Floyd Allport (1924) の社会心理学の先駆的なテキストは明示的に行動主義的な立場を取り入れ,その 30 年後 Gordon Allport (1954) によって行動主義の強調は成文化された.彼の定義によれば,社会心理学とは「個人の思考や感情,行動が,実際の/想像された/含意された,他者の存在によってどう影響を受けるか」を研究するものである.
  • 行動主義の強調は,社会心理学の “4A” (aggression, altruism, attitude change, attraction) を初め,教科書のあらゆるページに見ることができる.状況主義の教義は社会心理学に深く刻まれており,Ross and Nisbett (1991) は,「状況主義の原理」を「社会心理学の寄って立つ三本脚」のひとつとして挙げている.1960 年代に現れた認知的観点は,知覚された状況の重要性を強調したが,実際には,内的な認知プロセスについて言及する研究は少なかった.
  • Berkowitz and Devine (1995) が指摘するように,すべての古典的研究は,環境刺激による情動,思考,行為の自動的誘起の観点から再解釈できる.Wegner and Bargh (1998) も同意し,古典的な研究で探求された行動への状況要因の影響は (a) 意図せず (b) 意識せず (c) 効率的で (d) 制御しづらいという特徴(「自動性の4騎手」(Bargh, 1994) )を持つと述べている
  • これらの古典的研究は,もちろん,認知心理学において自動性の概念が生じる前におこなわれたものであるため,これらの効果が本当に,意図せず,意識せず,効率的で,制御しづらいものであるかはわからない.
  • Bargh 自身が,はっきりと,行動主義,状況主義,自動性を自由意志の問題と結び付けている
    • 思考や感情,行為の状況的原因を発見することが社会心理学の範囲なのだとすれば,心理学的現象の理解が進展すれば,自由意志や意識的な選択がそれらの説明に果たす役割は減退するだろうという予想からは逃げられない.換言すれば,社会心理学が思考や情動,行為の状況的決定要因に焦点を当てるがゆえに,社会心理学的現象が本性からして自動的であるとされるのは不可避なのである (1997a, p1)
  • 自動性による破壊勢力は,刺激と反応の間を認知が媒介していることを認めるため,厳密には刺激反応行動主義の復活ではない.ラディカルな状況主義を思い起こさせるが,認知主義との表面上の同盟を維持することができる.もし,対人関係行動の基礎をなす認知過程が環境刺激によって自動的に引き起こされるならば,行動は環境によって決定づけられている.もし,社会行動が完全に自動的ではないとしても,少なくともそれほど多くの思考が社会行動に関与するわけではない.故スーザン・ソンタグ (“fascism with a human face”) に因んで,これを認知的な顔をした行動主義と呼ぶことができる.

われわれは結局自動機械なのか?

  • 認知革命によって,意識研究は再興した (Hilgard, 1980) が,それでも,意識の話題は一部の心理学者を神経質にさせる.Flanagan (1992) はこれを conscious shyness と呼んだ.その原因は,実証主義的な留保,行動主義の残余などが様々あるが,意識非本質主義 conscious inessentialism(「意識気づきや意識的制御は認知の多くの側面において不必要である」)も大きな要因である.これが,意識は行動に因果的役割を果たさないという,随伴主義的な懐疑を生む.こうした見方では,我々は意識的なゾンビであり,結局はゾンビなのである.
  • 自動性の概念によって,我々には意識があることや,その神経相関の探求を認めることができる一方で,意識が行動を引き起こす上で何の役割も持っていないことも認めることができる.D.M. Wegner (2002) は,意識的な意図が幻覚であり,意識的な意図は行為のプレヴューであり,原因ではないということを力強く論じている.彼が言うには「これこそが人間の心理の説明における進歩が進むべき方向である.主体としての自己は,行為を引き起こす実在ではありえず,ヴァーチャルな存在であり,見かけ上の心的因果者なのだ」(2005, p.23).この引用は,自動性の破壊勢力が,経験的証拠ではなく,前理論的なイデオロギー的コミットメントに突き動かされていることを示している.こうしたコミットメントは,状況主義や行動主義に対するものだけではなく,科学がどのようなものであるか,どのような説明を科学理論が許容できるかといった特定の観点に対するものである.
  • 実際,随伴現象説は心理学,ひいては社会科学における長年の問題,つまり,自由意志と決定論の問題につながっている (Rogers & Skinner, 1956).ある理論家によれば,意識が行動において因果的役割を担っているという考えは,科学における根本的な想定に違反している.その想定とは,すべてのイベントは物理的な原因を持っており,人間的な主体は科学的な説明において位置を持たないというものだ.決定論の前提への固執か,意識を真剣に考えるかという選択を迫られた科学者は,しばしば前者を選び,思考と行為は自動的であり,意識は随伴的で因果的役割は持たないと考える.こうして Burgh and Ferguson (2000) は自動性は,行動が環境刺激によってどう決定づけられているかを示すことで,自由意志の問題を解き,行動主義が失敗したところで成功を収めたと書いている.
    • 伝統的には選択と自由意志の本質的な例とされていた高次の心的過程(目標追求,判断,対人行動)は近年,意識的な選択や導きなしに生じることが分かってきた.したがって,複雑な高次の人間行動や心的過程が決定論的であることを示すことに 20世紀なかばの行動主義が失敗したのは,そうした過程が決定づけられていないからではなく,行動主義が,環境と高次のプロセスとを媒介するのに必要とされる対人間の心理学的な説明メカニズムを否定したからである.(p. 926)
  • Wegner (2002) 同様,Bargh and Ferguson (2000) によれば,自動性は心理学が科学的地位を得るうえでも重要だという.自動性は無意識的な心的生を脱神秘化するだけではなく,意図をバイパスすることを可能にし (Bargh, 2005),古典物理学ピンボール決定論を採用することを可能にする.彼らは,自由意志と決定論の葛藤に面し,決定論を取り,自動性はそのための手段なのだ.同時に,これは誤った選択かもしれない.社会的な行動における自動的な過程の役割については,制御よりも自動性を選択させるような,科学的な証拠が存在しないのだ.
  • Searle (1992, 2000a, 2000b, 2001a, 2001b) が論じるように,自由意志の経験と決定論への科学的コミットメントとのように,どちらも説得力のある二つの信念の間での選択をせまられる場合,選択自体がきちんと枠づけられていないことが多い.もしかすると,自由意志概念は,素朴心理学の感傷的要素にすぎず,放棄するべきなのかもしれない.あるいは,正しいスタンスは,意識的な意志の経験を正当なものと受容し,ニューロンシナプス神経伝達物質の物質的世界の因果的図式の中に自由意志を位置づけて説明しようとすることかもしれない.この選択は,我々がこれからなすべきもので,価値ある心の科学を持てるかどうかを決定づけるものとなるだろう.