神経歴史学 進行中:溜め込みと人類の過去

Smail, D. L. (2014). Neurohistory in Action: Hoarding and the Human Past. Isis, 105(1), 110–122.

この論文に対するコメンタリーのレジュメ
Fuller, S. (2014). Neuroscience, Neurohistory, and the History of Science: A Tale of Two Brain Images. Isis, 105(1), 100–109.
紙とペン
Stadler, M. (2014). Neurohistory Is Bunk?: The Not-So-Deep History of the Postclassical Mind. Isis, 105(1), 133–144.
ポスト古典的な心(えめばら園)
総評
歴史学のニューロ・ターン スメイルとクーター(オシテオサレテ)

要旨
神経歴史学のアプローチは,人間の脳が比較的可塑的であり,それゆえに絶えず発達と文化の影響に開かれているという原理から始まる.ただし,これは,我々の脳を空白の石版として扱うべきであるということを意味しない.むしろ,こうした影響は,所与の脳/身体システムと相互作用し,予測不可能な後続する影響を生み出す.溜め込み強迫 compulsive hoarding と呼ばれる現象は,こうした方法によってアプローチ可能となる,歴史的あるいは文化的に状況づけられた行動のケース・スタディとなる.溜め込みは認知的損傷あるいは遺伝的素因と相関するように思われる.しかし,こうした行動が今日非常に目立つにも関わらず,人類の過去においてこうした行動があったことを示す証拠はほとんど存在しない.それゆえ,何かがこの増加しつつある現象の引き金を引いたと考えられる.我々は,環境歴史学に固有の共進化アプローチを用いて,溜め込み強迫の増大を創発現象として扱う.溜め込み強迫は,認知システムおよび内分泌システムが,刻々と変化する物質的環境と相互作用する予測不能なあり方によって生み出されたのである.この探究の結果から示唆されるのは,歴史学認知神経科学を必要とする理由のみならず,神経科学が歴史を必要とする理由でもある.

溜め込み強迫による神経科学と歴史学への挑戦

  • 近年,溜め込み強迫は学術界のみならず,メディアの注目も集めている.大量の新聞やヨーグルトの箱や猫に埋もれて,それらが取り除かれると苦痛を覚える人々.ある研究によればアメリカ人の 5% が溜め込み強迫の症状を示している.定義の曖昧さは問題だが,多くの溜め込みが生じていることは確かだ (Frost, 2010).(溜め込み強迫は精神疾患の診断マニュアル DSM-III (1980) から強迫性障害のひとつの診断基準として採用されてきた)
  • 溜め込み強迫という現象は,人間性や人類の過去についての理解や神経科学の実践そのものに挑戦を投げかける.自閉症注意欠陥多動性障害グルテン不耐症と同様,溜め込み強迫は,近年,特に急増しているように見える.科学コミュニティは溜め込み強迫を認知機構の障害として説得的に説明してきた.ある研究によれば,完全に通常の人間が内側前頭前野に損傷を負えば,より溜め込みを始めやすくなる (Anderson et al., 2005).また,溜め込み強迫は遺伝性であり,ヒトの「溜め込み遺伝子」は第14染色体に位置するという (Samuels, 2007)
  • 仮にこうした主張を受け入れると,進化心理学者のように,溜め込みは認知的普遍物であり,過去から現在に至るまでの世界中でみられるとする問題含みの結論に至ってしまう.しかし,こうした結論は受け入れがたい.後期旧石器時代の狩猟採集民が内側前頭前野脳損傷を負ったとした場合,旧石器時代に入手可能なあれやこれやを溜め込みやすくなっただろうか? アボリジニや !Kung 族が「裕福」であるとして描写されるのは,彼らが物を溜め込まないからである (Sahlins, 1972).こうした現代のエスノグラフィー研究の対象は,旧石器時代の人々とは異なるかもしれないが,物質的・環境的文脈は非常に類似しており,パッケージ化されたような商品や,糸くず,ボトルのキャップのような溜め込みの対象となるようなモノを欠いている.どちらの環境も,移動を要求するものであり,溜め込みを許さない.さらに,集団生活のパターンが,物の循環の速度を高めている.溜め込みを始めることが可能であったとは想像できない
  • 心理学的特性が必ず時間・空間を超えて普遍的に観察されると考える理由は存在しない.心理学者は,かつて(そして一部は今でも)ミュラー・リヤー錯視 (Fig. 1) は視覚皮質の不変の構造に由来する認知的普遍であると考えてきたが,大学生以外の世界中の被験者をテストするようになると,それが誤りであることが発見された.アマゾンの人々はほとんど錯視を示さない.ミュラー・リヤー錯視の文化的に状況づけられていること situatedness を最初に明らかにした Segall ら (1966) は,この効果は大工仕事のある社会(すなわち,直角を持った建築空間)に住む人々だけに観察されると論じている (see also McCauley & Henrich, 2006, Henrich et al., 2010)
  • 一方で,溜め込み強迫は生物学的あるいは心理学的特性であり,他方で,特定の歴史的文脈に結び付けられた文化的特性である.光が波と粒子の両方であるように,溜め込みは対立する両方の性質を持っている
  • こうした見かけ上のパラドクスは,生物学と文化との間に線を引く我々の習慣に起因するものである.歴史学文化人類学,そして科学史においてすら典型的な,こうしたアプローチは,人間の歴史を「受け渡しモデル」で捉えている.受け渡しモデルとは,遠い過去のある時点において,生物学的進化が文化的進化に道を譲り,歴史が生じるとするものだが,これは誤り.遺伝子はまだ存在し,違いをもたらしている.そして,エピジェネティクス研究が示す通り,遺伝子発現は,文化および個人の生活の環境と深く絡みあっている.今後の人間科学の主要な課題は,エピジェネティクスの発見と折り合いをつけ,受け渡しモデルなしで人間性を研究できるようにすること
  • 溜め込み強迫は,科学史歴史学,人類学といった領域がエピジェネティクス神経科学を必要としていることを示すし,それ以上に,認知神経科学歴史学を必要としていることも示す.方法論的に認知神経科学が現在主義的になるのは当然だが,Segall らの研究が示す通り,認知神経科学の発見が時空間にわたって普遍的であると仮定する理由はない.認知的普遍は,前提ではなく,証明されるべき事柄である.ドーパミン受容体,ストレス受容体などの脳を構成する要素は,世界中で類似しているだろうが,その密度は可変であり,歴史的・文化的偶然に左右されるし,ニューロンシナプス,内分泌系の変化は発達的・文化的環境によって引き起こされる.人間の脳は,歴史の内に存在するものなのだ.認知神経科学者は,どのようにして脳の歴史性を把握すべきかを学ばなければならない
  • 著者は,歴史学神経科学の協同を「神経歴史学」neurohistory と名付けた.神経歴史学は,人間の脳と内分泌系が可塑的で,発達的・文化的影響に絶えず開かれていることを前提とする.これによって,進化心理学よりも,より豊かに歴史化された過去への視点を得ることができる.しかし,これは脳を空白の石版として取り扱うことを意味しない.神経歴史学は,発達的・文化的影響が,脳・身体システムと相互作用し,予測不可能な効果を生み出すことを前提とする.こうした解釈は,人間性と複雑な人間のニッチとの関係の中に歴史的変化のベクトルを位置づける歴史記述のモデル (Shryock et al., 2011) によって可能になる.溜め込み強迫は,歴史的・文化的に状況づけられた現象であり,同時に認知的損傷や遺伝的素因とも相関する現象なのである.すなわち,認知システムと内分泌系が 物質的環境と相互作用することよって生み出された創発現象なのだ

文化・歴史と脳の共進化

  • 溜め込み強迫は,人間とモノとがアクターとして構成する特殊なネットワーク (cf. Latour, Hodder) として理解すべきである.人類とモノとの絡み合った関係は少なくとも260万年前から始まった.人類のニッチ(生態学的地位)を理解するうえで重要なのは,これが進化心理学者の仮定するような,安定した「進化的適応環境」とは異なり,絶えず変化する社会的ニッチであり続けているということ.こうした社会的ニッチは,協力や交換,懲罰から成る複雑な道徳的世界をうまく切り抜けるよう要求する.旧石器時代の社会的ニッチは物質的ニッチでもあり,我々は,道具や武器,炉などを製作することで,ニッチを物質的・社会的に改変し,その中でさらに進化してきた
  • 生物学と文化を分離するのは誤りで,初期の社会によって生み出された物質的環境は進化的時間の中でゲノムにも影響を与えている.火の発明は歯や胃の変化を及ぼし(Wrangam, 2009),武器の発明によって,眉弓や犬歯が持つ社会的地位のシグナリング能力が失われた (ボールドウィン効果, cf. Weber & Depew, 2003).我々がその中で生活し進化してきたような物質的環境なくしては人間性などというものは存在しない (Robb & Harris, 2013).遠い真核生物の先祖がミトコンドリアを取り込んできたように,我々のゲノムが,ウィルスの DNA を取り込んできたように,我々はつねにすでにポスト/ヒューマン・サイボーグなのだ
  • 遺伝子と文化の共進化は現在まで続いており,自然と文化の二分法が誤りであることを示している.さらに,人間の身体は,ゲノムには記録されない形で,歴史的変化へ反応する.食事は社会経済状態に影響されるので,貧しい人と豊かな人の体は異なって見える.靴が足や歩き方に与える影響.食料品産業が,顎の発達に影響を与え,親知らずの抜歯の必要が出てきた.養鶏の餌における内分泌攪乱物質が人間に与える影響….いわば,人間の身体は一種の印画紙で,物質的・社会的変化を容易に吸収し,明らかにしてしまう
  • こうした可塑的な性質は,特に脳において明らかで,道具は文字通り脳内の身体地図の中に組み込まれ,自由に取り外しのできる義手のようなものとなる (Blakeslee & Blakeslee, 2007).内分泌系も同様.テストステロンの多い男性はより父親になりやすいが,父親になるとテストステロンは減少する (Getler et al., 2011).子育てに三時間以上を費やしていることを報告した男性は,特にテストステロンが減少している.養育行動は社会経済構造によって規定されているので,テストステロンは社会経済構造をトラックしているといえる.テストステロンは,養育行動以外に,暴力や支配構造などにも関わるので,更なる影響を与えると考えられる
  • 脳に永久的な変化を与える影響もある.他のマウスとの争いに負け続けると,ストレス・ホルモンが恒常的に高いレベルになり (Yap & Miczek, 2007),無気力で従順な行動を示し,よりコカインを摂取することでストレスを和らげるようになる (Snyder et al., 2011).こうした慢性的ストレス状態は,ストレス受容体の減少を招き,脳に恒常的な影響を与える
  • 近年の発見で重要なのは,ストレスはエピジェネティックに遺伝するというもの.養育行動が十分に行われると,海馬のストレス受容体の密度が高まり,子ネズミはよりストレスに対処しやすくなる (Weaver et al., 2004).養育行動を十分に受けなかった子ネズミが母親になると,養育行動を十分に行わない.ストレスは世代を超えてエピジェネティックに遺伝するのである.歴史的トラウマ研究という新しい分野では,ストレスがどのように世代にわたって受け継がれるかを探究しはじめている (Walter et al., 2011; Niew〓hner, 2011)
  • このような研究は,人間性と我々の住まうニッチとの,現在進行中の複雑な弁証法から生じる歴史的変化のベクトルを描きだしている.地球温暖化現象が示すように,我々の歴史はバイオスフィアと絡み合っており (Charkrabarty, 2009),ニッチは我々の行動(「ニッチ構築」)をトラックしているのだ (Laland and O’Blien, 2010).あらゆる歴史的アクター同様,ニッチは我々の行動に予測可能な形でも予測不可能な形でも反応し,それは彼らが一階の行為者性や意図を欠いているという事実とは関係がない (Ingold, 2007)
  • メキシコでの牧羊は,土壌に変化をもたらし,乾燥化を進めた (Melville, 1994).森林の減少が湿地帯を増大させ,蚊の増大をもたらした (McNeil, 2010)….こうした現象は,人間の社会に更なる影響を与える.環境歴史学者は,我々が絡み合っているほかのシステム,あるいはアクター・ネットワークの歴史から切り離されては,人間の歴史は意味をなさないことを示してきた.歴史学の対象は人間性ではなく,人間性とニッチとの共進化の関係に基づく変化のベクトルなのだ.人間性を孤立したものとして扱う歴史観を我々は捨てなければならない
  • ニッチは,気候,生物,水など様々なものを含み,我々の創り出したモノもふくまれる.我々はモノに適応し,モノも我々に適応してきた.チーターとガゼルの進化的軍拡競争(足の速さ)のように.
  • このような見方をとっても,我々が絡み合うモノに一階の行為者性を割り当てるべきではない.19世紀のヨーロッパの工業化に関与した人々は意図的に二酸化炭素を排出したわけではないが,二階の行為者性の行為の結果は現在大問題となっている.24億年前に酸素を大量産出したストロマトライトは,意図せずして,地球にあらゆる生命をもたらした.溜め込み強迫症者の生を蝕むモノは,完全な寄生者のように思われる.彼らは,被寄生者の余剰エネルギーを消費させ,自らを再生産するようにしむけるように進化したのだ.モノは,危険だ.

消費社会と溜め込み強迫

  • 科学は溜め込み強迫を認知機構の障害という観点のみから説明できるような心理学減少として扱う.そして,現在に当てはまることは過去にも常に当てはまってきたと仮定する.そして,この行動がどのようにして始まったのかを適応の観点から探そうとする.実際,単純な溜め込みは,過去においても現在においても,適応的である.旧石器時代の人々は,不確実性へのバッファーとして食物を蓄えただろう.9-10世紀の北ヨーロッパ人は,ヴァイキングの襲来に備えてコインを蓄えた.ヴァイキング自身も,コインや銀を蓄えた.溜め込み強迫はこうした適応的な本能の過剰反応から生じたと論じることは可能だろう
  • こうした説明の問題は,無用なモノを溜め込むような溜め込み強迫はせいぜいこの一,二世紀の現象であるということだ.更新世の人々や,中世ヨーロッパの人々が,不要物を溜め込んだことを示す証拠はない(例外は,カイロ・ゲニザ(文書保管室)で見つかった書類 (Wimmer, 2012) や,初期近代ヨーロッパの印刷された書物).小説における溜め込み強迫の性格タイプは19世紀前には見られなかった.
  • 強迫的収集のルーツは数世紀前まで遡ることができるかもしれない.しかし,仮に強迫的収集の神経基盤が溜め込み強迫と共有されているとしても,二つは異なる行動パターンである.収集行動においては,収集物は整理され注釈などが付され,溜め込み行動における無秩序なゴミの山とは異なる.更に,適応的な溜め込み行動は,溜め込み強迫とは異なり,季節性のものであったり,ヴァイキングの襲来のようなイベントに引き起こされたりするものであり,溜め込まれたモノは,収集物同様に,整理される.適応的な溜め込み者は,満足気に溜め込んだモノを見つめる.対照的に,溜め込み強迫は,獲得の瞬間の後は溜め込んだモノにほとんど興味を示さない.ただそれが廃棄されることについては不安とともに恐れをいだく
  • 溜め込み強迫が非常に近代的な心理学的現象だとすれば,どのようにしてこの現象の増大や,認知機構の損傷との相関を説明できるのか? ここでは,仮説を提示する
  • モノが身体や脳へと深く侵入しているように,モノはアクター・ネットワークのみならず,情動的関係へも侵入しているのだ.Bloom (2004, 2005; Jarudi et al., 2008) によれば,我々は本来二元論的であり,生物とそれ以外を乳児期から区別する一方で,社会認知システムは時に暴走し,本来,欲求や目標を持たないモノにまで,それを帰属してしまう.こうした過剰帰属の最大の産物が,神や悪魔であり,また,モノは過剰帰属によって道徳システムへと組み込まれ,アクター・ネットワークの中に位置を占めるようになる.家族や親族の中で発達した情動的関係は,ペットや家やモノにまで拡大適用される.我々の情動的習慣は無差別で,アクター・ネットワーク内のどのようなものにも適用可能なのだ
  • しかし,こうした情動的関係のみでは,溜め込み強迫を説明するには不十分である.重要な点は,古代や中世ヨーロッパ社会では,再生・再利用が多く見られ,それほど多くのゴミは産まれなかった.毛糸やシルク製の衣類は,繰り返し,ほどかれ,カットされ,再利用された.金属も鍛冶場に戻され再生された.こうした世界で,個人が内側前頭前野に損傷を負ったり,第14染色体に溜め込み遺伝子を所有していたりした場合,どうなるのだろうか? 何等かの行動療法の必要性を感じたかもしれないが,木片や陶片や布の切れ端などを溜め込むことはなかっただろう.なぜならこうしたモノを差し押さえることを物質的ニッチが許さなかったから
  • こうした見方によれば,溜め込み強迫は歴史の産物であり,工業生産の近代的パターンによって生み出された物質的ニッチの文脈で創発してきたものであり,特に消費の成長と関連付けられる.消費の増大は貧困を緩和し,女性やサバルタンの能力を高めるなどの良い効果をもたらしたかもしれない.しかし,フランクフルト学派以降の批判的歴史学は,より暗いヴィジョンを提示し,消費の習慣は罠や中毒であると考える.購買をあおる資本家と,無力な大衆の欲望を操る心理学者の邪悪な連合によって消費の欲望は生み出されているのだ.大衆の阿片は,宗教ではなく,モノである.権力の秩序は,支配と制御を通してではなく,ましてや監視によってでもなく,神経系を通じて直接に作動するのである.これはオルダス・ハクスリーが『すばらしい新世界』で描いた世界であり,人々が自らの圧政に喜んで同意する際にも,全体主義的な権力は邪悪かどうかというのが重要な哲学的問いである
  • 資本主義に対する批判的歴史学は,購買者が新商品を入手することを考えることでドーパミンが高まり,買い物依存を引き起こしさえすることを示す結果と整合的である (Black, 2007).溜め込み強迫は買い物より遥かに稀な現象だが,それでも資本主義近代を校正する行動である.しかし,溜め込み強迫は欲望によっては簡単に説明できないため問題となる.その理由は,溜め込み強迫は,ドーパミン報酬系ではなく,主にセロトニン系に関係する行動だからである.セロトニンは脳内では神経伝達物質として働き,確信度と安心に関与する.MDMA(エクスタシー)は,セロトニン作動薬であり,一時の幸福感を与えるが,シナプスに貯蔵されたセロトニンが枯渇すると,抑うつと不安が忍び寄る.仮に溜め込みがセロトニン系の障害であるならば,モノはセロトニン作動薬と近似的な効果を持っているのである.溜め込み強迫症者は,溜め込んだモノを捨てようとすると極度の不安に襲われるが,ある意味,モノは拡張された身体となっているのである.
  • 溜め込み強迫の重要な特徴として,それがゴミの経済に依存しているという点がある.何かを捨てるということは,アクター・ネットワークの中でモノのメンバーシップを否定する行為である.同様に重要なのは,果てしなき同一性を生み出す大量生産である.もしひとつの牛乳パックに人格性と永久的な有用性を帰属させたとすれば,無数の牛乳パックにそれを見出すことになってしまうのである.こうした観点によれば,溜め込み強迫は,近代における創発的現象である.認知機構の潜在的性質が近代資本主義によって生み出された物質的ニッチと予測不能な形で相互作用することで生じたのである

結論

  • 消費の批判者は,消費の欲望は狡猾なマーケティングによって人工的に生み出されたものであると論じてきたが,これが全てではない.慢性的にストレスを与えられたマウスがコカインによって自らを治癒するように,消費者は,消費や溜め込みによって慢性的ストレスを治癒しているのである
  • 溜め込み強迫は後期資本主義に対して,異なる角度からの理解をもたらす.モノは親族や家族の代替品なのだ.溜め込み強迫において,歴史上,特殊なのは,モノが循環することをやめたことだ
  • 溜め込み強迫は,ある種の人々にとっては,有用性と不用性の階層を創造し執行することが難しいということを示す.この階層は,ゴミの経済だけではなく,ネオリベラルの経済全体にとっても重要なものだ.富者と貧者,価値と無価値が分割された世界において,モノの階層が人間の階層を反映しているならば,溜め込み強迫症者は,非常に寛大でリベラルな心の持ち主であるといえる.通常は豪奢な製品に適用されるような尊厳を不要なモノに与え,家族のように扱い,その損失を惜しむ.我々が憐みや軽蔑を持って,溜め込みを障害として扱うことは,もしかすると我々自身の見当違いの優先事項に対するコメントなのかもしれない