推論と言語のアナロジーは,人間の推論の合理性を救えるか?

Without Good Reason: The Rationality Debate in Philosophy and Cognitive Science (CLARENDON LIBRARY OF LOGIC AND PHILOSOPHY)

Without Good Reason: The Rationality Debate in Philosophy and Cognitive Science (CLARENDON LIBRARY OF LOGIC AND PHILOSOPHY)

Stein, E. (1996). Without Good Reason: The Rationality Debate in Philosophy and Cognitive Science. Oxford University Press, USA.
Chap 2 Competence ←いまここ
Chap 4 Charity (えめばら園)
Chap 5 Reflective Equilibrium
Chap 7 Standard Picture (えめばら園)
Chap 8 Conclusion (えめばら園)

第一章でぼくは人間の推論能力が推論の規範的原理に合致するという見方として合理性テーゼを記述した.このような合理性テーゼの特徴づけは,言語学理論から能力 competenceという考え方を導入している.この章の第一節では,言語能力の概念について,類似した能力の概念が推論の領域でも展開可能であるかどうかという方向性から議論する.その途上で,現代の言語学理論における関連したテーゼについても議論する.こうした詳細はここでの探求において有用だろう.第二節では,ひとの推論能力の本性について議論する.

1. 言語
1.1 言語知識

  • 言語は信号を意味へと結びつける抽象的なシステムであり,認知科学パラダイムの中における現代の言語学者の役割は,人間の言語知識の説明を発展させることである
    • 言語知識という際,明示的な知識や意識的な信念ではなく,単に英語を話す能力があるというだけでもない
    • 非文法的な文を同定できるだとか,二つの文がお互いに何らかの形で関係しているという判断だとか,こうした行動を基礎づけ支配する無意識の規則の集合の土台となる認知的構造が言語知識を構成している
  • 第一章に述べたように,哲学者は,典型的には,知識を正当化された真なる信念のようなものとして考えてきたが,ぼくたちの言語の原理がどのように正当化されているかはまったく明らかではない
    • N. Chomsky はこうした混乱を避けるために,「言語知識を有する」という代わりに,「言語原理を cognize する」という語り方を採用したことがある (Chomsky, 1975)
  • ぼくたちの言語知識のふたつの特徴は,それが無意識で,かつ,抽象的であるということだ
    • 自分の日本語の知識とは,単に,以下のような文から構成される長いリストを知っているということだけに過ぎないといいたくなるかもしれない.つまり,以下の文は,文法的な日本語の文であるという事実
  • 「豚がひとを追いかける」
  • 「豚がバットでひとを殴る」
    • こうした考えの問題は,言語行動は創造的(あるいは生産的)で,ぼくたちはみな新しい文を産出し,かつ,理解できる(上のような文にこれまで出逢ったことがなくとも問題なく理解できるでしょう)
    • 実際,文法的に正しい日本語の文は無限に存在するし,それらを全部記憶しておくことはできない.むしろ,ぼくたちは抽象的な言語規則を知っており,それによって完全に新しいような文であっても,さまざまな文を産み出し,理解することができるのだ:言語知識は,特定の事実ではなく,規則から構成される
  • 具体例として,英語の規則的複数形と不規則的複数形の名詞から複合語をつくる規則についての子供の知識の研究を見てみよう (Gordon, 1986; 要約として Pinker, 1994)
    • 「複合語は不規則な複数形からは作ることができるが,規則的な複数形からはつくることができない.たとえば,ネズミのはびこった家を mice-infested と形容することができるが,rats-infested というのは奇妙な感じがする.むしろ,定義上,一匹のネズミがはびこることができないのに,rat-infested と言う.3-5 歳の子供はこの制約に厳密に従う.子供に人形を見せながら,Gordon は『泥を食べるのが好きなモンスターがいるよ』と話しかける.『なんて呼ぼうかな? Mud-eater だね!』.子供たちは食べ物がおぞましいほど惹きつけられる.じゃあ『mice を食べるのが好きなモンスターは…』.子供たちは答える.『a mice-eaterだ!』 でも,『rats を食べるのが好きなモンスターは…』と聞くと,子供たちは,『a rat-eater』とこたえる.Mice と言えなくて,mouses と言ってしまう子供でも,ぜったいに mouses-eater とは言わない.つまり,子供たちは,複数形を複合語へと結合する際の微妙な制約を尊重しているんだ」(Pinker, 1994: 146-147)
    • 子供は,「複数形の名詞を使って複合語を作るには,名詞が規則的複数形を持つ場合は単数形を用い,不規則的複数形を持つ場合は複数形を用いよ」という規則を知っているようである
    • どうやって 3 歳の子供はこんな知識を手に入れるのだろうか?
  • こうした類の複合語が使用されているのを聞いて学習したと考えるかもしれないが,Gordon によれば,複数形を含む複合語はかなり稀であるという
  • 大人の発話は子供に十分な証拠を提供しないし,子供が意識的にこうした規則を学習するにはこの規則は複雑すぎる
  • 親は子供にこうした規則を明示的に説明しようとすることはほとんどないし,説明したとしても,子供には理解できない
    • この例は,子供が明らかにこの規則を知っているにも関わらず,そうした言語知識が無意識的であることを示している
    • さらに,言語知識は,複雑な規則の知識であり,個別的な言語的事実ではないということも示す
  • 子供は,こうした用例に遭遇したことがないのだから,どの複合語が文法的であるかどうかを記憶していない
  • こうした例から,言語知識は ability あるいは,capacityあるいは,傾向性の集合であると言いたくなるかもしれないが,Chomsky (1980) は,そのような特徴づけをはっきりと拒否している
    • 彼は,仮想事例として,脳への損傷により一時的な失語症を患った Juan の例を挙げている
  • Juan はしばらくして回復し,言語能力を取り戻したが,この時,母語を改めて学びなおす必要はない
  • Juan の話す capacity が失われていたときにも何かが保持されていたことを意味する
  • それが言語知識であり,単なる capacity ではない
    • 「Ability や capacity は言語知識を使用するときに必要とされるものかもしれないが,言語知識は capacity や ability ではない.原理的に,ひとは,言語知識を使用する capacity なくして言語知識というべき完全に発達した認知的構造を持つことができる…知識や理解や信念は,capacity より抽象的なレベルにある…capacity や傾向性といった概念は,行動や「言語使用」により深く関わる」(Chomsky, 1975)
  • 言語学者は言語知識に直接アクセスできないので,発話や理解や言語学的判断といった言語行動を通じて,それらに間接的にアクセスする
    • ぼくたちは睡眠不足,ドラッグの過剰摂取,興奮(状況的要因)や,処理時間や記憶の制約(心理学的要因)によって,ミスを犯し,非文法的な文を産出することがある.これらは運用上のエラー performance error と呼ばれ,話者に言語知識がないことを意味しない
    • 言語学者が取り組むのは,実際の言語行動に反映される言語運用ではなく,それを基礎づける言語知識である

1.2 言語生得説(略)
1.3 言語器官(略)
1.4 言語能力(略)
1.5 言語能力についてのシンプルな反論(略)

2. 推論能力

  • 合理性テーゼのおともだちは,ひとの推論が推論の規範的原理に従っていると考え,非合理性テーゼのおともだちは,ひとの推論は規範から逸脱した原理に従っていると考える
    • 合理性テーゼのおともだちは,ぼくたちが推論において過ちをおかさないということを主張しているのではなく,ぼくたちが推論において過ちを犯すときは推論の能力に合致しない形で推論しているのだと考える
    • 換言すれば,合理性テーゼは,ぼくたちの推論能力 competence が推論の規範的原理に合致する規則によって特徴づけられると考える
  • 合理性テーゼのおともだちは,ピアノを弾く能力よりも,もっとロバストな言語能力との類比を行いたいと考える
    • 言語と認知との密接な関連を考えれば,言語能力との比較は適切に思われるが,推論に対して能力-運用の区別を適用するのは,なかなか困難である(以下の節)

2.1 推論能力とは何か?

  • 能力-運用の区別を推論に適用するということは,推論能力に合致した推論と,運用上のエラーを構成する様々な干渉要因から生じる推論とを区別することを意味する
    • 実際の人間の推論行動は,我々の推論能力の作動と状況的・心理的要因によって引き起こされる運用上のエラーの組み合わせによって説明される
    • 言語能力と同様に,推論能力は知識としてもメカニズムの作動としても考えることができる
    • 能力の知識的観点からすると,推論能力は∧除去規則のような推論規則を含むことになる
  • ∧除去規則原理が推論能力を特徴づけるということは,ひとが時にこの原理に従って推論することに失敗することと整合的であり,この原理の適用に干渉する運用要素がないときに,この規則に従って推論することを意味する
  • 推論能力のメカニズム観点からすると,推論能力とは,我々の推論 capacity を基礎づけるメカニズムが束縛を受けていない場合の機能を意味する
    • 何が我々の推論 ability の背後にあるのかを問わなければならない,すなわち,言語能力と同様に推論能力を基礎づけるような心的器官(あるいはその他の生得的なメカニズム)が存在するのか
    • 推論能力が脳になんらかの方法で実装されていることは明らかだが,それが生得的なのか,そうだとすれば,どのような種類の生得性なのか,推論に特異的なのか,もっと一般的なのか
  • これらは,当座の目的に関しては,直接重要ではないが,それ自体で面白い
  • いずれにせよ,推論の場合,言語とは異なり,知識とメカニズムのふたつの観点は非整合的ではない
    • 言語能力の場合,メカニズム観点は,言語知識の一部ではないような言語特異的な心理学的機構が言語能力の一部に含まれることになる
    • 推論能力の場合,推論の知識の一部でないような推論特異的なメカニズムが存在するかどうかは明らかではない
    • もし,存在しない場合,メカニズムと知識の観点は同一であり,もし,存在するならば,言語の場合と同様,二つは異なることになる(この問題は第三章で扱うが,推論能力の周辺に境界を引く際に,問題が生じることになる)

2.2 生得論の推論能力への応用

  • まず,推論能力が生得的であると考えるべきいくつかの理由を述べる
    • 推論に関する刺激の貧困説はほとんどが思考実験によるものだが,基本ラインは,子供は十分な経験をもつことなく,それを明示的に教えられる事もなく,推論原理を適用するという考え
    • 子供はおそらく「Ernie は赤いボールと青いボールを持っている」から「Ernie は赤いボールを持っている」と推論することができるだろうし,新しい状況においても同様の推論は可能で,かつ,確信を持つだろう:つまり子供は∧除去原理の知識を有している!
    • A and B の形式を持つ文から A を導く推論を形成する有限数の観察は,∧除去規則がこうした個々の推論の裏にあるという結論を正当化しない
    • こうした議論は,子供が規則を学習する証拠を有さないため,何らかの生得的な推論原理が存在しなければならないことを示唆する
  • しかし刺激の貧困説は∧除去規則が生得的であることを意味しない
    • むしろ,こうした議論はぼくたちが学習することのできる推論原理に制約があることを示すためのものである
    • 言語学においては,刺激の貧困説は英語の規則が生得的であることを示すのではなく,ぼくたちが学習することのできる言語の可能性が,言語学習に対する生得的な制約によって,特定の仕方で限定されていることを示すものである
    • 推論の場合も同様で,刺激の貧困説は,ぼくたちが学習することのできる推論原理には生得的な制約があり,そうした制約によって子供は特定の推論の事例から∧除去原理のような一般的規則を抽象化することが可能となっていることを示す
  • ∧除去規則が英語の原理のようなものか,あるいは,より一般的な言語知識のようなものかはオープン
  • アームチェア心理学はさておき,どのような心理学実験ならば,子供が教えられる前に推論原理を知っている事を示すことができるだろうか?
    • 推論については,まだほとんど実際の研究は行われていないが(出版ぎりぎりまで以下の研究について知らんかった… Cummins et al., 1988; Girotto et al., 1989; Light et al., 1989; Light et al., 1990),乳児の数的能力の発達心理学実験が良い参考になるだろう
    • 脱馴化を用いて,子供がミッキーマウスの数をトラックできることを示した実験 (Wynn, 1992)
  • ついたての裏にミッキーマウスを一体づつ隠した後についたてを取り払う.隠した数と現れた数が異なると驚いて良く見る
  • 数的に不可能な状況をよく見るということは,乳児が数の概念を持っており,その概念を操作することができることを示している
  • ディズニーランドでもミッキーマウスが同時に一匹以上存在しないように細心の注意が払われているのに,良いのだろうか
  • 数的認知の研究は,推論の生得性の研究のモデルになるし,そもそも推論の生得性と関連があるかもしれない
    • 数学と論理は密接な関連があり,論理規則に基づいた推論原理が,数に関わる認知メカニズムを支えてるかもしれない
  • 推論原理の生得性についてのもうひとつの証拠源は,推論原理の普遍性の可能性
    • もし文化間で推論原理が同様であれば,推論への制約がかなりタイトであることを示唆するが,証拠は限られている (Hutchins, 1980; Cummins, 1995) のでもっと研究が必要ですね
  • 推論原理の生得性を示唆する神経学的・遺伝学的証拠もあるかもしれない
    • アルツハイマー脳梗塞のような症例は,特定の認知・推論能力が特異的に失われる事を示唆する (Caramazza et al., 1985) し,認知障害に関わる遺伝的疾患 (Frith et al., 1991) も推論に関わる遺伝的構造を明らかにするのに役立つ
    • まだまだ研究は足りません
  • 生得性を示す証拠は,いまのところ,推論においては良くても示唆的なものに留まる.こうした違いは,経験的な探求がまだ少ないからかもしれないし,あるいは,言語と推論の概念的な違いによるのかもしれない
    • 学習には何らかの推論能力が必要とされているが,言語にはこれは当てはまらない(ある種の学習には言語が必要であるけれど)
    • 言語能力がモジュール的であることを示唆する証拠 (2.3 節) はあるが,推論能力がモジュール的であるかどうかは明らかではない
    • こうした概念的な差異が,推論能力の生得性の議論にどう関係するのかについて,ブートストラップ説と動物研究について考察する
  • (推論原理を含め)なんであれ学習するためには推論を行う ability が必要とされるため,推論システムの一部は生得的でなければならない:ブートストラップ説
    • 経験に基づいて推論を行う capacity が無ければ,何も新しいことを学習することは出来ない;学習を可能にする原理を(少なくとも非明示的に)知らずして(あるいはメカニズムを持たずして)は,何も学習できないことは,ほとんど定義上真である
  • 問題1: こうした議論は,ごく少数の推論原理が生得的である証拠しか与えてくれない
  • 問題2: こうしたごく少数の生得的な原理が推論だけに適用されるものかどうかが明らかではない
    • 推論に特異的な実質的な生得的原理が存在するかどうかについての更なる論証が必要
  • 推論 ability には,他の動物との進化的連続性があり,他の動物も基本的な推論原理に従ってふるまうように見える (Gallistel, 1990; Walker, 1983; Parker and Gibson, 1990; Rachlin et al., 1986; Herrnstein, 1990; Griffin, 1984)
    • 動物たちは,新規なものであっても,問題解決に比較的すぐれており,もしこうした動物たちの推論原理が生得的なものであるならば,人間も同様ということになるだろうが,それを示す証拠はほとんどない
    • 環境を観察して推論原理を学習する一般的な ability がヒトと動物とで連続的なのであり,推論の生得的な原理に連続性があるわけではないようだ.言い換えれば,動物は学習を可能にする基礎的な生得的原理を持っているかもしれないが,それ以上ではない
  • ここまで,推論原理の生得性を支持する証拠を検証してきたが,それらはどれもそれほど強力ではないし,言語や素朴物理学,素朴心理学,数,幾何学の生得的知識を支持する証拠 (Spelke, 1994; Pinker, 1994) と比べても弱い
    • 推論についての生得説はまちがっているのか?
    • Stich (1990) によれば,「ひとが採用する推論の戦略は,言語のように,環境変数によって大部分決定づけられている,個人間や社会間での推論戦略の変異は遺伝的要素とは独立かもしれない」.
  • Stich の議論は,言語と推論の良いアナロジーとは言えない
  • まったく違う環境で育った一卵性双生児を考えよう
    • 異なる言語を喋り,異なる体型に育つことはあり得るが,それでも,言語も身体のサイズも第一には primarily 遺伝的に制御されている
    • 言語の多様性が言語生得説と整合的であるのと同様に,推論能力の生得説は推論 capacities の多様性と整合的でありえる
  • あらゆる現実のそして可能な言語の獲得に対する生得的な制約が存在し,それは言語の多様性と整合的であり,かつ,人間の言語の類似した抽象的構造を説明する
    • 同様に,推論原理が生得的であるとする考えは,何らかの多様性を排除するとしても問題を生じないどころか,なぜ人間が構造的に類似した推論原理を有するのかを説明できる
  • 更に言えば,ある特性が生得的であることは,それが普遍的である事を意味しない
    • 推論能力についての生得主義は,推論 ability の変異と整合的であるし,その変異は,目の色の変異のように,遺伝的差異によるのかもしれない
    • しかし,認知システムには変異があまりないと考える理由がある:認知システムは遺伝学的に複雑であり,多くの[発達的?]段階が関わり様々な遺伝子によってコードされている
    • 推論能力は心的器官であり,身体器官の変異が小さいのと同様に,変異は小さいと考えられる
    • 生殖において,遺伝子がシャッフルされ結合された際に,あまりに個人間変異が大きいと,複雑な心的器官は機能しなくなってしまう
  • 生殖器官は複雑だが,性的二型を示すが,同様のことが推論能力にもありえるという反論があるかもしれないが,
    • 性的二型は生殖に関わるシステムに限定される
    • 性的二型は遺伝子というよりホルモンによるものが大きい
    • 性的な差異は,生物学的なものより,文化的なものかもしれない
    • 男女はコミュニケートして理解し合う必要があり,あまりに違う推論能力をもっていたら,お互いに計画を立てたりすることが難しくなってしまう
    • これらの議論は,推論能力に性的二型が存在しないことを証明するものではないが,通常の人間はほぼ同様の推論能力を持っていると考える良い理由を与えてくれる
  • 推論能力は心的器官なのか問題
    • 様々な部分から構成されているかもしれないが,全体としてひとつの適応的な機能を実行し,推論プロセスで役割を果たす事のみに有用な器官であると言える.たとえば,∧除去規則はそれだけでは,役に立たないが,他の推論原理と合わせると劇的に有用になる
  • ここまでの議論は,推論能力が(領域特異的で生得的に指定され自律的な)モジュールであることを意味しない
    • 推論能力が自律的でない,すなわち,他の認知メカニズムから遮蔽されていないがゆえに,モジュールでないとする議論をここで考察して退ける
    • ぼくたちはどんな信念でも持て,こうしたどんな信念であっても,それをもとにして推論を行うことができる.こうした推論原理の一般性は,推論が自律的でない事を意味し,モジュールでないことを意味するかもしれない
  • こうした議論は,二つの種類の一般性を混同している
    • 推論は,言語が(どんな話題でも扱えるという意味で)一般的であるのと同様に,一般的である.すなわち,心的器官が覆う事のできる内容の範囲という点で一般的なのである
    • 言語能力を構成する原理はこの意味では一般的ではなく,こうした原理は言語使用・理解を特徴づけるが,視覚や聴覚を特徴づけるわけではない.同様に,推論能力を構成する推論原理は,どんな話題に関する推論にも役に立つかもしれないが,推論にのみ役に立つのである
    • 現時点では,ぼくたちの推論器官は,推論モジュールと考えるべき
  • まとめ:推論能力は推論特異的な生得的原理に基づいており,こうした生得性の証拠が,言語能力の生得性の証拠より弱いとしても,推論能力が生得的であると考えるべき理由はいくつかある

2.3 推論能力の規範的要素

  • 言語と推論の関係は,能力と規範の関係において区別すべきである
    • 認知システムがどのように振る舞うかという説明は記述的なものであるが,こうした説明も規範的な要素を含みうる;つまり,システムがその機能を最善な形で発揮するためにはどのように振る舞うべきかを非明示的に述べることになる
    • 言語学者が言語能力の説明を与えるとき,彼女は言語 capacity の記述を与えるとともに,人間の自然言語の規範がどのようなものかも述べている
  • つまり,ひとびとは言語能力の原理に沿ったかたちで言語を使用すべきであり,さもなくば,理解されないかもしれない
    • 標準的な合理性の図式から言えば,推論能力の説明を与える事は,規範的な含意を持たないという点で,言語能力の説明を与えることとは異なる
  • 第七章で,推論能力の説明は,推論の規範的原理がどのようなものであるかについての規範的含意を持つという自然化された合理性の図式を擁護するが,現時点では,標準的な合理性の図式(表2.1)の前提にしたがう
  • 言語学者は規範的な要素を分野から閉め出していると考えているので,こうした図式は反発を買うかもしれない
    • 言語学者が閉め出しているということで意味しているのは,規制的 prescriptive な要素である
  • たとえば,英語話者は “ain’t” のような語を使うべきではないというような主張 (Pinker, 1994: Ch. 12) を閉め出している
    • しかし,だからといって,ひとが思考を伝えるのにどのような語を用いても良いと言語学者が考えているわけではない
  • どんなに強固なanti-prescriptivist であっても,辞書やスペルチェックを使用し,他人の文法ミスを修正するだろう
    • 言語学者は,もし明瞭にコミュニケーションをしたいならばぼくたちが従うべき英語のルールが存在することを認めるだろう
    • Anti-prescriptivist は,言語が変化することを許容する
  • たとえば,ら抜き言葉は間違っているというべきではなく,多くのひとがら抜き言葉を用いてコミュニケーションしている以上,許容される
    • しかし,こうした意味で言語学者が prescriptive であることを避けているとしても,言語学者はここでいう意味で依然として規範的である?つまり,言語能力の説明は,ひとびとが持つべき言語能力の説明を含意する【道具的規範性?】
  • ひとびとの言語能力に,わずかに,しかし重要な変化が生じるように脳が構築されるような思考実験をやってみよう
    • 通常,文法的であると判断されるような言語パターン(パターンA)が,脳のある部分が異なる仕方で構築された場合には非文法的であると判断され,通常,非文法的であると判断されるような言語パターン(パターンB)が,脳のある部分が異なる仕方で構築された場合には文法的であると判断されるとしよう
    • こうした場合,能力と規範の両方が変化することになる?つまり,脳が変更された場合,文法性の判断が変わるだけではなく,文法性そのものが変わる
  • 実際の脳の構造から独立に,パターン自体に(非)文法性というものが存在するわけではない
    • 仮説事例においても(現実の事例と同様に)規範的原理が言語能力から読み取れるのだから,言語能力が言語の規範的原理と合致するという主張は真である
  • 推論においても同様の思考実験をやってみる
    • 通常,従われるような原理(原理 A)が,脳のある部分が異なる仕方で構築された場合には従われず,通常,従われないような原理(原理 B)が,脳のある部分が異なる仕方で構築された場合には従われるとしよう
    • 人間が実際に合理的であると考えているものは,反実仮想事例における人間は非合理的であると言わなければならない?なぜなら,合理性テーゼを受容するということは,ぼくたちの推論能力に現実に埋め込まれた推論原理(原理 A)こそが正しい原理であることを認めることであり,他の原理(原理 B)は誤った原理である言わなければならないから
    • 言語との大きな違いは,言語規範(文法性の原理)は言語能力に相対的であるのに対し,推論規範(合理性の原理)は推論能力に相対的であるようには見えないということだ
  • 仮に,実際に推論規範と推論能力が合致していたとしても,(言語の場合とは異なり)規範が実際の能力に紐づけられているがゆえに合致しているとは思えない
    • 言語能力の説明を与えることは,なんらかの言語規範を意味するが,推論能力の説明を与えることは,推論規範を意味しない
  • 推論の規範が推論能力に紐づけられているようには思えないという強い直観を退ける議論は第 5 章と第 7 章
  • どのような能力の記述にも規範的部分が存在するが,そうした規範的要素を,能力の記述が持つ規範的含意からはっきりと区別する必要があるので,ややこしい
    • あらゆる能力の記述はなんらかの理想化が関わり,そうであるがゆえに規範的である?すなわち実際のふるまいと理想化された能力の区別が規範性を持つ
    • 言語能力の記述を与えるということは,(すくなくとも非明示的に)何が正しい人間の言語行動なのか?何が規範か?を与えることであるが,こうした記述における規範的部分は,記述が持つ規範的含意とは区別するべきである
  • 合理性テーゼは,ぼくたちの推論能力が推論の規範的原理と合致するというもの,すなわち,ぼくたちの推論 capacity を基礎づけるメカニズムの十全な作動を記述する原理が規範であるということになる
    • 言語学においては,言語能力の説明は,言語の規範的原理(つまり,文法性の原理)の(非明示的な)説明を意味するので,言語と推論のアナロジーが有効ならば,合理性テーゼは正しいことになる
    • つまり,もし推論の規範が実際の推論能力に紐づけられている indexed to のならば,合理性テーゼは正しいことになるが,しかし,推論は言語とは異なり,規範的原理は能力に根ざしていない
  • ここまでの議論は,推論の規範的原理と推論能力の原理とが合致することと整合的であり,合理性テーゼが偽である事を意味しない
    • 著者のポイントは,言語とのアナロジーは,合致を示すのに十分ではないということ
  • 推論の領域においては,推論能力の記述的説明と,推論の規範的説明との違いに十分に注意する必要がある
    • 推論能力の記述的説明とは,ぼくたちの推論 capacity を特徴づける,経験的に発見可能な原理の集合を示すこと
    • 推論の規範的説明とは,ぼくたちがどう推論すべきかを特徴づける原理の集合を示す事
    • このふたつが合致することも可能性としてあり得るが,これらが合致することを前提とすることは問題がある
    • こうした前提は,すなわち,能力-運用の区別を推論の免疫化の戦略に用いることであり,推論の規範は推論能力に紐づけられており,人間の推論が推論規範から逸脱していることを示すいかなる経験的な証拠もア・プリオリに運用のエラーとして説明されることになる
  • ここでの議論は本書の以降の議論にも重要なのでまとめると…合理性テーゼのおともだちも非合理性テーゼのおともだちも推論能力を持っている事を示す必要があり,その点で言語能力とのアナロジーは有用である
    • しかし,推論能力の存在自体が,合理性テーゼを支持する議論を構成すると考えると問題が出てくる
    • 能力-運用の区別によって「すべての推論のエラーが運用上のエラーである(それゆえ,人間は合理的である)」が意味されると考えることは,こうした区別によって合理性をあらゆる反証から防護するような免疫化戦略をとることになる
  • 言語とのアナロジーは魅力的で,この本のなかでもたびたび用いられるが,文法性の原理が言語能力に紐づけられているように,推論の規範が推論能力に紐づけられていると前提するのは,強いアナロジーである
    • 言語能力と推論能力のアナロジーはある程度は有効であるが,強いアナロジーが成り立つかどうかを示すにはさらなるステップが必要である
    • 一見したところ,推論の規範的原理と,人間の推論行動を基礎づける能力との間には,ギャップがありそうである
  • この議論を明らかにするために,倫理学における言語とのアナロジーを考察してみよう
    • ひとが倫理能力 ethical competence をもっていると想定した場合,あるひとの倫理能力は(運用エラーがなければ)道徳的に正しい行為だけを承認し,あるひとの倫理能力はしばしば非道徳的な行為を承認するようなものになるかもしれない
    • もし,倫理能力と正しい倫理理論とが合致するならば,強いアナロジーが成り立つことになるが,倫理能力が正しい倫理理論から逸脱する場合は,アナロジーは弱いものにとどまる
    • 強いアナロジーを採用して合致を前提することは,更なる論証が必要
  • 合理性テーゼにおいて重要な点は,単に推論能力が存在することを示したり,言語と推論のあいだの様々な類似を示したりする以上の論証が必要であるということ
    • 合理性が推論能力から帰結すると前提することは誤りである