推論と言語のアナロジーは,人間の推論の合理性を救えるか?

Without Good Reason: The Rationality Debate in Philosophy and Cognitive Science (CLARENDON LIBRARY OF LOGIC AND PHILOSOPHY)

Without Good Reason: The Rationality Debate in Philosophy and Cognitive Science (CLARENDON LIBRARY OF LOGIC AND PHILOSOPHY)

Stein, E. (1996). Without Good Reason: The Rationality Debate in Philosophy and Cognitive Science. Oxford University Press, USA.
Chap 2 Competence ←いまここ
Chap 4 Charity (えめばら園)
Chap 5 Reflective Equilibrium
Chap 7 Standard Picture (えめばら園)
Chap 8 Conclusion (えめばら園)

第一章でぼくは人間の推論能力が推論の規範的原理に合致するという見方として合理性テーゼを記述した.このような合理性テーゼの特徴づけは,言語学理論から能力 competenceという考え方を導入している.この章の第一節では,言語能力の概念について,類似した能力の概念が推論の領域でも展開可能であるかどうかという方向性から議論する.その途上で,現代の言語学理論における関連したテーゼについても議論する.こうした詳細はここでの探求において有用だろう.第二節では,ひとの推論能力の本性について議論する.

1. 言語
1.1 言語知識

  • 言語は信号を意味へと結びつける抽象的なシステムであり,認知科学パラダイムの中における現代の言語学者の役割は,人間の言語知識の説明を発展させることである
    • 言語知識という際,明示的な知識や意識的な信念ではなく,単に英語を話す能力があるというだけでもない
    • 非文法的な文を同定できるだとか,二つの文がお互いに何らかの形で関係しているという判断だとか,こうした行動を基礎づけ支配する無意識の規則の集合の土台となる認知的構造が言語知識を構成している
  • 第一章に述べたように,哲学者は,典型的には,知識を正当化された真なる信念のようなものとして考えてきたが,ぼくたちの言語の原理がどのように正当化されているかはまったく明らかではない
    • N. Chomsky はこうした混乱を避けるために,「言語知識を有する」という代わりに,「言語原理を cognize する」という語り方を採用したことがある (Chomsky, 1975)
  • ぼくたちの言語知識のふたつの特徴は,それが無意識で,かつ,抽象的であるということだ
    • 自分の日本語の知識とは,単に,以下のような文から構成される長いリストを知っているということだけに過ぎないといいたくなるかもしれない.つまり,以下の文は,文法的な日本語の文であるという事実
  • 「豚がひとを追いかける」
  • 「豚がバットでひとを殴る」
    • こうした考えの問題は,言語行動は創造的(あるいは生産的)で,ぼくたちはみな新しい文を産出し,かつ,理解できる(上のような文にこれまで出逢ったことがなくとも問題なく理解できるでしょう)
    • 実際,文法的に正しい日本語の文は無限に存在するし,それらを全部記憶しておくことはできない.むしろ,ぼくたちは抽象的な言語規則を知っており,それによって完全に新しいような文であっても,さまざまな文を産み出し,理解することができるのだ:言語知識は,特定の事実ではなく,規則から構成される
  • 具体例として,英語の規則的複数形と不規則的複数形の名詞から複合語をつくる規則についての子供の知識の研究を見てみよう (Gordon, 1986; 要約として Pinker, 1994)
    • 「複合語は不規則な複数形からは作ることができるが,規則的な複数形からはつくることができない.たとえば,ネズミのはびこった家を mice-infested と形容することができるが,rats-infested というのは奇妙な感じがする.むしろ,定義上,一匹のネズミがはびこることができないのに,rat-infested と言う.3-5 歳の子供はこの制約に厳密に従う.子供に人形を見せながら,Gordon は『泥を食べるのが好きなモンスターがいるよ』と話しかける.『なんて呼ぼうかな? Mud-eater だね!』.子供たちは食べ物がおぞましいほど惹きつけられる.じゃあ『mice を食べるのが好きなモンスターは…』.子供たちは答える.『a mice-eaterだ!』 でも,『rats を食べるのが好きなモンスターは…』と聞くと,子供たちは,『a rat-eater』とこたえる.Mice と言えなくて,mouses と言ってしまう子供でも,ぜったいに mouses-eater とは言わない.つまり,子供たちは,複数形を複合語へと結合する際の微妙な制約を尊重しているんだ」(Pinker, 1994: 146-147)
    • 子供は,「複数形の名詞を使って複合語を作るには,名詞が規則的複数形を持つ場合は単数形を用い,不規則的複数形を持つ場合は複数形を用いよ」という規則を知っているようである
    • どうやって 3 歳の子供はこんな知識を手に入れるのだろうか?
  • こうした類の複合語が使用されているのを聞いて学習したと考えるかもしれないが,Gordon によれば,複数形を含む複合語はかなり稀であるという
  • 大人の発話は子供に十分な証拠を提供しないし,子供が意識的にこうした規則を学習するにはこの規則は複雑すぎる
  • 親は子供にこうした規則を明示的に説明しようとすることはほとんどないし,説明したとしても,子供には理解できない
    • この例は,子供が明らかにこの規則を知っているにも関わらず,そうした言語知識が無意識的であることを示している
    • さらに,言語知識は,複雑な規則の知識であり,個別的な言語的事実ではないということも示す
  • 子供は,こうした用例に遭遇したことがないのだから,どの複合語が文法的であるかどうかを記憶していない
  • こうした例から,言語知識は ability あるいは,capacityあるいは,傾向性の集合であると言いたくなるかもしれないが,Chomsky (1980) は,そのような特徴づけをはっきりと拒否している
    • 彼は,仮想事例として,脳への損傷により一時的な失語症を患った Juan の例を挙げている
  • Juan はしばらくして回復し,言語能力を取り戻したが,この時,母語を改めて学びなおす必要はない
  • Juan の話す capacity が失われていたときにも何かが保持されていたことを意味する
  • それが言語知識であり,単なる capacity ではない
    • 「Ability や capacity は言語知識を使用するときに必要とされるものかもしれないが,言語知識は capacity や ability ではない.原理的に,ひとは,言語知識を使用する capacity なくして言語知識というべき完全に発達した認知的構造を持つことができる…知識や理解や信念は,capacity より抽象的なレベルにある…capacity や傾向性といった概念は,行動や「言語使用」により深く関わる」(Chomsky, 1975)
  • 言語学者は言語知識に直接アクセスできないので,発話や理解や言語学的判断といった言語行動を通じて,それらに間接的にアクセスする
    • ぼくたちは睡眠不足,ドラッグの過剰摂取,興奮(状況的要因)や,処理時間や記憶の制約(心理学的要因)によって,ミスを犯し,非文法的な文を産出することがある.これらは運用上のエラー performance error と呼ばれ,話者に言語知識がないことを意味しない
    • 言語学者が取り組むのは,実際の言語行動に反映される言語運用ではなく,それを基礎づける言語知識である

1.2 言語生得説(略)
1.3 言語器官(略)
1.4 言語能力(略)
1.5 言語能力についてのシンプルな反論(略)

2. 推論能力

  • 合理性テーゼのおともだちは,ひとの推論が推論の規範的原理に従っていると考え,非合理性テーゼのおともだちは,ひとの推論は規範から逸脱した原理に従っていると考える
    • 合理性テーゼのおともだちは,ぼくたちが推論において過ちをおかさないということを主張しているのではなく,ぼくたちが推論において過ちを犯すときは推論の能力に合致しない形で推論しているのだと考える
    • 換言すれば,合理性テーゼは,ぼくたちの推論能力 competence が推論の規範的原理に合致する規則によって特徴づけられると考える
  • 合理性テーゼのおともだちは,ピアノを弾く能力よりも,もっとロバストな言語能力との類比を行いたいと考える
    • 言語と認知との密接な関連を考えれば,言語能力との比較は適切に思われるが,推論に対して能力-運用の区別を適用するのは,なかなか困難である(以下の節)

2.1 推論能力とは何か?

  • 能力-運用の区別を推論に適用するということは,推論能力に合致した推論と,運用上のエラーを構成する様々な干渉要因から生じる推論とを区別することを意味する
    • 実際の人間の推論行動は,我々の推論能力の作動と状況的・心理的要因によって引き起こされる運用上のエラーの組み合わせによって説明される
    • 言語能力と同様に,推論能力は知識としてもメカニズムの作動としても考えることができる
    • 能力の知識的観点からすると,推論能力は∧除去規則のような推論規則を含むことになる
  • ∧除去規則原理が推論能力を特徴づけるということは,ひとが時にこの原理に従って推論することに失敗することと整合的であり,この原理の適用に干渉する運用要素がないときに,この規則に従って推論することを意味する
  • 推論能力のメカニズム観点からすると,推論能力とは,我々の推論 capacity を基礎づけるメカニズムが束縛を受けていない場合の機能を意味する
    • 何が我々の推論 ability の背後にあるのかを問わなければならない,すなわち,言語能力と同様に推論能力を基礎づけるような心的器官(あるいはその他の生得的なメカニズム)が存在するのか
    • 推論能力が脳になんらかの方法で実装されていることは明らかだが,それが生得的なのか,そうだとすれば,どのような種類の生得性なのか,推論に特異的なのか,もっと一般的なのか
  • これらは,当座の目的に関しては,直接重要ではないが,それ自体で面白い
  • いずれにせよ,推論の場合,言語とは異なり,知識とメカニズムのふたつの観点は非整合的ではない
    • 言語能力の場合,メカニズム観点は,言語知識の一部ではないような言語特異的な心理学的機構が言語能力の一部に含まれることになる
    • 推論能力の場合,推論の知識の一部でないような推論特異的なメカニズムが存在するかどうかは明らかではない
    • もし,存在しない場合,メカニズムと知識の観点は同一であり,もし,存在するならば,言語の場合と同様,二つは異なることになる(この問題は第三章で扱うが,推論能力の周辺に境界を引く際に,問題が生じることになる)

2.2 生得論の推論能力への応用

  • まず,推論能力が生得的であると考えるべきいくつかの理由を述べる
    • 推論に関する刺激の貧困説はほとんどが思考実験によるものだが,基本ラインは,子供は十分な経験をもつことなく,それを明示的に教えられる事もなく,推論原理を適用するという考え
    • 子供はおそらく「Ernie は赤いボールと青いボールを持っている」から「Ernie は赤いボールを持っている」と推論することができるだろうし,新しい状況においても同様の推論は可能で,かつ,確信を持つだろう:つまり子供は∧除去原理の知識を有している!
    • A and B の形式を持つ文から A を導く推論を形成する有限数の観察は,∧除去規則がこうした個々の推論の裏にあるという結論を正当化しない
    • こうした議論は,子供が規則を学習する証拠を有さないため,何らかの生得的な推論原理が存在しなければならないことを示唆する
  • しかし刺激の貧困説は∧除去規則が生得的であることを意味しない
    • むしろ,こうした議論はぼくたちが学習することのできる推論原理に制約があることを示すためのものである
    • 言語学においては,刺激の貧困説は英語の規則が生得的であることを示すのではなく,ぼくたちが学習することのできる言語の可能性が,言語学習に対する生得的な制約によって,特定の仕方で限定されていることを示すものである
    • 推論の場合も同様で,刺激の貧困説は,ぼくたちが学習することのできる推論原理には生得的な制約があり,そうした制約によって子供は特定の推論の事例から∧除去原理のような一般的規則を抽象化することが可能となっていることを示す
  • ∧除去規則が英語の原理のようなものか,あるいは,より一般的な言語知識のようなものかはオープン
  • アームチェア心理学はさておき,どのような心理学実験ならば,子供が教えられる前に推論原理を知っている事を示すことができるだろうか?
    • 推論については,まだほとんど実際の研究は行われていないが(出版ぎりぎりまで以下の研究について知らんかった… Cummins et al., 1988; Girotto et al., 1989; Light et al., 1989; Light et al., 1990),乳児の数的能力の発達心理学実験が良い参考になるだろう
    • 脱馴化を用いて,子供がミッキーマウスの数をトラックできることを示した実験 (Wynn, 1992)
  • ついたての裏にミッキーマウスを一体づつ隠した後についたてを取り払う.隠した数と現れた数が異なると驚いて良く見る
  • 数的に不可能な状況をよく見るということは,乳児が数の概念を持っており,その概念を操作することができることを示している
  • ディズニーランドでもミッキーマウスが同時に一匹以上存在しないように細心の注意が払われているのに,良いのだろうか
  • 数的認知の研究は,推論の生得性の研究のモデルになるし,そもそも推論の生得性と関連があるかもしれない
    • 数学と論理は密接な関連があり,論理規則に基づいた推論原理が,数に関わる認知メカニズムを支えてるかもしれない
  • 推論原理の生得性についてのもうひとつの証拠源は,推論原理の普遍性の可能性
    • もし文化間で推論原理が同様であれば,推論への制約がかなりタイトであることを示唆するが,証拠は限られている (Hutchins, 1980; Cummins, 1995) のでもっと研究が必要ですね
  • 推論原理の生得性を示唆する神経学的・遺伝学的証拠もあるかもしれない
    • アルツハイマー脳梗塞のような症例は,特定の認知・推論能力が特異的に失われる事を示唆する (Caramazza et al., 1985) し,認知障害に関わる遺伝的疾患 (Frith et al., 1991) も推論に関わる遺伝的構造を明らかにするのに役立つ
    • まだまだ研究は足りません
  • 生得性を示す証拠は,いまのところ,推論においては良くても示唆的なものに留まる.こうした違いは,経験的な探求がまだ少ないからかもしれないし,あるいは,言語と推論の概念的な違いによるのかもしれない
    • 学習には何らかの推論能力が必要とされているが,言語にはこれは当てはまらない(ある種の学習には言語が必要であるけれど)
    • 言語能力がモジュール的であることを示唆する証拠 (2.3 節) はあるが,推論能力がモジュール的であるかどうかは明らかではない
    • こうした概念的な差異が,推論能力の生得性の議論にどう関係するのかについて,ブートストラップ説と動物研究について考察する
  • (推論原理を含め)なんであれ学習するためには推論を行う ability が必要とされるため,推論システムの一部は生得的でなければならない:ブートストラップ説
    • 経験に基づいて推論を行う capacity が無ければ,何も新しいことを学習することは出来ない;学習を可能にする原理を(少なくとも非明示的に)知らずして(あるいはメカニズムを持たずして)は,何も学習できないことは,ほとんど定義上真である
  • 問題1: こうした議論は,ごく少数の推論原理が生得的である証拠しか与えてくれない
  • 問題2: こうしたごく少数の生得的な原理が推論だけに適用されるものかどうかが明らかではない
    • 推論に特異的な実質的な生得的原理が存在するかどうかについての更なる論証が必要
  • 推論 ability には,他の動物との進化的連続性があり,他の動物も基本的な推論原理に従ってふるまうように見える (Gallistel, 1990; Walker, 1983; Parker and Gibson, 1990; Rachlin et al., 1986; Herrnstein, 1990; Griffin, 1984)
    • 動物たちは,新規なものであっても,問題解決に比較的すぐれており,もしこうした動物たちの推論原理が生得的なものであるならば,人間も同様ということになるだろうが,それを示す証拠はほとんどない
    • 環境を観察して推論原理を学習する一般的な ability がヒトと動物とで連続的なのであり,推論の生得的な原理に連続性があるわけではないようだ.言い換えれば,動物は学習を可能にする基礎的な生得的原理を持っているかもしれないが,それ以上ではない
  • ここまで,推論原理の生得性を支持する証拠を検証してきたが,それらはどれもそれほど強力ではないし,言語や素朴物理学,素朴心理学,数,幾何学の生得的知識を支持する証拠 (Spelke, 1994; Pinker, 1994) と比べても弱い
    • 推論についての生得説はまちがっているのか?
    • Stich (1990) によれば,「ひとが採用する推論の戦略は,言語のように,環境変数によって大部分決定づけられている,個人間や社会間での推論戦略の変異は遺伝的要素とは独立かもしれない」.
  • Stich の議論は,言語と推論の良いアナロジーとは言えない
  • まったく違う環境で育った一卵性双生児を考えよう
    • 異なる言語を喋り,異なる体型に育つことはあり得るが,それでも,言語も身体のサイズも第一には primarily 遺伝的に制御されている
    • 言語の多様性が言語生得説と整合的であるのと同様に,推論能力の生得説は推論 capacities の多様性と整合的でありえる
  • あらゆる現実のそして可能な言語の獲得に対する生得的な制約が存在し,それは言語の多様性と整合的であり,かつ,人間の言語の類似した抽象的構造を説明する
    • 同様に,推論原理が生得的であるとする考えは,何らかの多様性を排除するとしても問題を生じないどころか,なぜ人間が構造的に類似した推論原理を有するのかを説明できる
  • 更に言えば,ある特性が生得的であることは,それが普遍的である事を意味しない
    • 推論能力についての生得主義は,推論 ability の変異と整合的であるし,その変異は,目の色の変異のように,遺伝的差異によるのかもしれない
    • しかし,認知システムには変異があまりないと考える理由がある:認知システムは遺伝学的に複雑であり,多くの[発達的?]段階が関わり様々な遺伝子によってコードされている
    • 推論能力は心的器官であり,身体器官の変異が小さいのと同様に,変異は小さいと考えられる
    • 生殖において,遺伝子がシャッフルされ結合された際に,あまりに個人間変異が大きいと,複雑な心的器官は機能しなくなってしまう
  • 生殖器官は複雑だが,性的二型を示すが,同様のことが推論能力にもありえるという反論があるかもしれないが,
    • 性的二型は生殖に関わるシステムに限定される
    • 性的二型は遺伝子というよりホルモンによるものが大きい
    • 性的な差異は,生物学的なものより,文化的なものかもしれない
    • 男女はコミュニケートして理解し合う必要があり,あまりに違う推論能力をもっていたら,お互いに計画を立てたりすることが難しくなってしまう
    • これらの議論は,推論能力に性的二型が存在しないことを証明するものではないが,通常の人間はほぼ同様の推論能力を持っていると考える良い理由を与えてくれる
  • 推論能力は心的器官なのか問題
    • 様々な部分から構成されているかもしれないが,全体としてひとつの適応的な機能を実行し,推論プロセスで役割を果たす事のみに有用な器官であると言える.たとえば,∧除去規則はそれだけでは,役に立たないが,他の推論原理と合わせると劇的に有用になる
  • ここまでの議論は,推論能力が(領域特異的で生得的に指定され自律的な)モジュールであることを意味しない
    • 推論能力が自律的でない,すなわち,他の認知メカニズムから遮蔽されていないがゆえに,モジュールでないとする議論をここで考察して退ける
    • ぼくたちはどんな信念でも持て,こうしたどんな信念であっても,それをもとにして推論を行うことができる.こうした推論原理の一般性は,推論が自律的でない事を意味し,モジュールでないことを意味するかもしれない
  • こうした議論は,二つの種類の一般性を混同している
    • 推論は,言語が(どんな話題でも扱えるという意味で)一般的であるのと同様に,一般的である.すなわち,心的器官が覆う事のできる内容の範囲という点で一般的なのである
    • 言語能力を構成する原理はこの意味では一般的ではなく,こうした原理は言語使用・理解を特徴づけるが,視覚や聴覚を特徴づけるわけではない.同様に,推論能力を構成する推論原理は,どんな話題に関する推論にも役に立つかもしれないが,推論にのみ役に立つのである
    • 現時点では,ぼくたちの推論器官は,推論モジュールと考えるべき
  • まとめ:推論能力は推論特異的な生得的原理に基づいており,こうした生得性の証拠が,言語能力の生得性の証拠より弱いとしても,推論能力が生得的であると考えるべき理由はいくつかある

2.3 推論能力の規範的要素

  • 言語と推論の関係は,能力と規範の関係において区別すべきである
    • 認知システムがどのように振る舞うかという説明は記述的なものであるが,こうした説明も規範的な要素を含みうる;つまり,システムがその機能を最善な形で発揮するためにはどのように振る舞うべきかを非明示的に述べることになる
    • 言語学者が言語能力の説明を与えるとき,彼女は言語 capacity の記述を与えるとともに,人間の自然言語の規範がどのようなものかも述べている
  • つまり,ひとびとは言語能力の原理に沿ったかたちで言語を使用すべきであり,さもなくば,理解されないかもしれない
    • 標準的な合理性の図式から言えば,推論能力の説明を与える事は,規範的な含意を持たないという点で,言語能力の説明を与えることとは異なる
  • 第七章で,推論能力の説明は,推論の規範的原理がどのようなものであるかについての規範的含意を持つという自然化された合理性の図式を擁護するが,現時点では,標準的な合理性の図式(表2.1)の前提にしたがう
  • 言語学者は規範的な要素を分野から閉め出していると考えているので,こうした図式は反発を買うかもしれない
    • 言語学者が閉め出しているということで意味しているのは,規制的 prescriptive な要素である
  • たとえば,英語話者は “ain’t” のような語を使うべきではないというような主張 (Pinker, 1994: Ch. 12) を閉め出している
    • しかし,だからといって,ひとが思考を伝えるのにどのような語を用いても良いと言語学者が考えているわけではない
  • どんなに強固なanti-prescriptivist であっても,辞書やスペルチェックを使用し,他人の文法ミスを修正するだろう
    • 言語学者は,もし明瞭にコミュニケーションをしたいならばぼくたちが従うべき英語のルールが存在することを認めるだろう
    • Anti-prescriptivist は,言語が変化することを許容する
  • たとえば,ら抜き言葉は間違っているというべきではなく,多くのひとがら抜き言葉を用いてコミュニケーションしている以上,許容される
    • しかし,こうした意味で言語学者が prescriptive であることを避けているとしても,言語学者はここでいう意味で依然として規範的である?つまり,言語能力の説明は,ひとびとが持つべき言語能力の説明を含意する【道具的規範性?】
  • ひとびとの言語能力に,わずかに,しかし重要な変化が生じるように脳が構築されるような思考実験をやってみよう
    • 通常,文法的であると判断されるような言語パターン(パターンA)が,脳のある部分が異なる仕方で構築された場合には非文法的であると判断され,通常,非文法的であると判断されるような言語パターン(パターンB)が,脳のある部分が異なる仕方で構築された場合には文法的であると判断されるとしよう
    • こうした場合,能力と規範の両方が変化することになる?つまり,脳が変更された場合,文法性の判断が変わるだけではなく,文法性そのものが変わる
  • 実際の脳の構造から独立に,パターン自体に(非)文法性というものが存在するわけではない
    • 仮説事例においても(現実の事例と同様に)規範的原理が言語能力から読み取れるのだから,言語能力が言語の規範的原理と合致するという主張は真である
  • 推論においても同様の思考実験をやってみる
    • 通常,従われるような原理(原理 A)が,脳のある部分が異なる仕方で構築された場合には従われず,通常,従われないような原理(原理 B)が,脳のある部分が異なる仕方で構築された場合には従われるとしよう
    • 人間が実際に合理的であると考えているものは,反実仮想事例における人間は非合理的であると言わなければならない?なぜなら,合理性テーゼを受容するということは,ぼくたちの推論能力に現実に埋め込まれた推論原理(原理 A)こそが正しい原理であることを認めることであり,他の原理(原理 B)は誤った原理である言わなければならないから
    • 言語との大きな違いは,言語規範(文法性の原理)は言語能力に相対的であるのに対し,推論規範(合理性の原理)は推論能力に相対的であるようには見えないということだ
  • 仮に,実際に推論規範と推論能力が合致していたとしても,(言語の場合とは異なり)規範が実際の能力に紐づけられているがゆえに合致しているとは思えない
    • 言語能力の説明を与えることは,なんらかの言語規範を意味するが,推論能力の説明を与えることは,推論規範を意味しない
  • 推論の規範が推論能力に紐づけられているようには思えないという強い直観を退ける議論は第 5 章と第 7 章
  • どのような能力の記述にも規範的部分が存在するが,そうした規範的要素を,能力の記述が持つ規範的含意からはっきりと区別する必要があるので,ややこしい
    • あらゆる能力の記述はなんらかの理想化が関わり,そうであるがゆえに規範的である?すなわち実際のふるまいと理想化された能力の区別が規範性を持つ
    • 言語能力の記述を与えるということは,(すくなくとも非明示的に)何が正しい人間の言語行動なのか?何が規範か?を与えることであるが,こうした記述における規範的部分は,記述が持つ規範的含意とは区別するべきである
  • 合理性テーゼは,ぼくたちの推論能力が推論の規範的原理と合致するというもの,すなわち,ぼくたちの推論 capacity を基礎づけるメカニズムの十全な作動を記述する原理が規範であるということになる
    • 言語学においては,言語能力の説明は,言語の規範的原理(つまり,文法性の原理)の(非明示的な)説明を意味するので,言語と推論のアナロジーが有効ならば,合理性テーゼは正しいことになる
    • つまり,もし推論の規範が実際の推論能力に紐づけられている indexed to のならば,合理性テーゼは正しいことになるが,しかし,推論は言語とは異なり,規範的原理は能力に根ざしていない
  • ここまでの議論は,推論の規範的原理と推論能力の原理とが合致することと整合的であり,合理性テーゼが偽である事を意味しない
    • 著者のポイントは,言語とのアナロジーは,合致を示すのに十分ではないということ
  • 推論の領域においては,推論能力の記述的説明と,推論の規範的説明との違いに十分に注意する必要がある
    • 推論能力の記述的説明とは,ぼくたちの推論 capacity を特徴づける,経験的に発見可能な原理の集合を示すこと
    • 推論の規範的説明とは,ぼくたちがどう推論すべきかを特徴づける原理の集合を示す事
    • このふたつが合致することも可能性としてあり得るが,これらが合致することを前提とすることは問題がある
    • こうした前提は,すなわち,能力-運用の区別を推論の免疫化の戦略に用いることであり,推論の規範は推論能力に紐づけられており,人間の推論が推論規範から逸脱していることを示すいかなる経験的な証拠もア・プリオリに運用のエラーとして説明されることになる
  • ここでの議論は本書の以降の議論にも重要なのでまとめると…合理性テーゼのおともだちも非合理性テーゼのおともだちも推論能力を持っている事を示す必要があり,その点で言語能力とのアナロジーは有用である
    • しかし,推論能力の存在自体が,合理性テーゼを支持する議論を構成すると考えると問題が出てくる
    • 能力-運用の区別によって「すべての推論のエラーが運用上のエラーである(それゆえ,人間は合理的である)」が意味されると考えることは,こうした区別によって合理性をあらゆる反証から防護するような免疫化戦略をとることになる
  • 言語とのアナロジーは魅力的で,この本のなかでもたびたび用いられるが,文法性の原理が言語能力に紐づけられているように,推論の規範が推論能力に紐づけられていると前提するのは,強いアナロジーである
    • 言語能力と推論能力のアナロジーはある程度は有効であるが,強いアナロジーが成り立つかどうかを示すにはさらなるステップが必要である
    • 一見したところ,推論の規範的原理と,人間の推論行動を基礎づける能力との間には,ギャップがありそうである
  • この議論を明らかにするために,倫理学における言語とのアナロジーを考察してみよう
    • ひとが倫理能力 ethical competence をもっていると想定した場合,あるひとの倫理能力は(運用エラーがなければ)道徳的に正しい行為だけを承認し,あるひとの倫理能力はしばしば非道徳的な行為を承認するようなものになるかもしれない
    • もし,倫理能力と正しい倫理理論とが合致するならば,強いアナロジーが成り立つことになるが,倫理能力が正しい倫理理論から逸脱する場合は,アナロジーは弱いものにとどまる
    • 強いアナロジーを採用して合致を前提することは,更なる論証が必要
  • 合理性テーゼにおいて重要な点は,単に推論能力が存在することを示したり,言語と推論のあいだの様々な類似を示したりする以上の論証が必要であるということ
    • 合理性が推論能力から帰結すると前提することは誤りである

神経歴史学 進行中:溜め込みと人類の過去

Smail, D. L. (2014). Neurohistory in Action: Hoarding and the Human Past. Isis, 105(1), 110–122.

この論文に対するコメンタリーのレジュメ
Fuller, S. (2014). Neuroscience, Neurohistory, and the History of Science: A Tale of Two Brain Images. Isis, 105(1), 100–109.
紙とペン
Stadler, M. (2014). Neurohistory Is Bunk?: The Not-So-Deep History of the Postclassical Mind. Isis, 105(1), 133–144.
ポスト古典的な心(えめばら園)
総評
歴史学のニューロ・ターン スメイルとクーター(オシテオサレテ)

要旨
神経歴史学のアプローチは,人間の脳が比較的可塑的であり,それゆえに絶えず発達と文化の影響に開かれているという原理から始まる.ただし,これは,我々の脳を空白の石版として扱うべきであるということを意味しない.むしろ,こうした影響は,所与の脳/身体システムと相互作用し,予測不可能な後続する影響を生み出す.溜め込み強迫 compulsive hoarding と呼ばれる現象は,こうした方法によってアプローチ可能となる,歴史的あるいは文化的に状況づけられた行動のケース・スタディとなる.溜め込みは認知的損傷あるいは遺伝的素因と相関するように思われる.しかし,こうした行動が今日非常に目立つにも関わらず,人類の過去においてこうした行動があったことを示す証拠はほとんど存在しない.それゆえ,何かがこの増加しつつある現象の引き金を引いたと考えられる.我々は,環境歴史学に固有の共進化アプローチを用いて,溜め込み強迫の増大を創発現象として扱う.溜め込み強迫は,認知システムおよび内分泌システムが,刻々と変化する物質的環境と相互作用する予測不能なあり方によって生み出されたのである.この探究の結果から示唆されるのは,歴史学認知神経科学を必要とする理由のみならず,神経科学が歴史を必要とする理由でもある.

溜め込み強迫による神経科学と歴史学への挑戦

  • 近年,溜め込み強迫は学術界のみならず,メディアの注目も集めている.大量の新聞やヨーグルトの箱や猫に埋もれて,それらが取り除かれると苦痛を覚える人々.ある研究によればアメリカ人の 5% が溜め込み強迫の症状を示している.定義の曖昧さは問題だが,多くの溜め込みが生じていることは確かだ (Frost, 2010).(溜め込み強迫は精神疾患の診断マニュアル DSM-III (1980) から強迫性障害のひとつの診断基準として採用されてきた)
  • 溜め込み強迫という現象は,人間性や人類の過去についての理解や神経科学の実践そのものに挑戦を投げかける.自閉症注意欠陥多動性障害グルテン不耐症と同様,溜め込み強迫は,近年,特に急増しているように見える.科学コミュニティは溜め込み強迫を認知機構の障害として説得的に説明してきた.ある研究によれば,完全に通常の人間が内側前頭前野に損傷を負えば,より溜め込みを始めやすくなる (Anderson et al., 2005).また,溜め込み強迫は遺伝性であり,ヒトの「溜め込み遺伝子」は第14染色体に位置するという (Samuels, 2007)
  • 仮にこうした主張を受け入れると,進化心理学者のように,溜め込みは認知的普遍物であり,過去から現在に至るまでの世界中でみられるとする問題含みの結論に至ってしまう.しかし,こうした結論は受け入れがたい.後期旧石器時代の狩猟採集民が内側前頭前野脳損傷を負ったとした場合,旧石器時代に入手可能なあれやこれやを溜め込みやすくなっただろうか? アボリジニや !Kung 族が「裕福」であるとして描写されるのは,彼らが物を溜め込まないからである (Sahlins, 1972).こうした現代のエスノグラフィー研究の対象は,旧石器時代の人々とは異なるかもしれないが,物質的・環境的文脈は非常に類似しており,パッケージ化されたような商品や,糸くず,ボトルのキャップのような溜め込みの対象となるようなモノを欠いている.どちらの環境も,移動を要求するものであり,溜め込みを許さない.さらに,集団生活のパターンが,物の循環の速度を高めている.溜め込みを始めることが可能であったとは想像できない
  • 心理学的特性が必ず時間・空間を超えて普遍的に観察されると考える理由は存在しない.心理学者は,かつて(そして一部は今でも)ミュラー・リヤー錯視 (Fig. 1) は視覚皮質の不変の構造に由来する認知的普遍であると考えてきたが,大学生以外の世界中の被験者をテストするようになると,それが誤りであることが発見された.アマゾンの人々はほとんど錯視を示さない.ミュラー・リヤー錯視の文化的に状況づけられていること situatedness を最初に明らかにした Segall ら (1966) は,この効果は大工仕事のある社会(すなわち,直角を持った建築空間)に住む人々だけに観察されると論じている (see also McCauley & Henrich, 2006, Henrich et al., 2010)
  • 一方で,溜め込み強迫は生物学的あるいは心理学的特性であり,他方で,特定の歴史的文脈に結び付けられた文化的特性である.光が波と粒子の両方であるように,溜め込みは対立する両方の性質を持っている
  • こうした見かけ上のパラドクスは,生物学と文化との間に線を引く我々の習慣に起因するものである.歴史学文化人類学,そして科学史においてすら典型的な,こうしたアプローチは,人間の歴史を「受け渡しモデル」で捉えている.受け渡しモデルとは,遠い過去のある時点において,生物学的進化が文化的進化に道を譲り,歴史が生じるとするものだが,これは誤り.遺伝子はまだ存在し,違いをもたらしている.そして,エピジェネティクス研究が示す通り,遺伝子発現は,文化および個人の生活の環境と深く絡みあっている.今後の人間科学の主要な課題は,エピジェネティクスの発見と折り合いをつけ,受け渡しモデルなしで人間性を研究できるようにすること
  • 溜め込み強迫は,科学史歴史学,人類学といった領域がエピジェネティクス神経科学を必要としていることを示すし,それ以上に,認知神経科学歴史学を必要としていることも示す.方法論的に認知神経科学が現在主義的になるのは当然だが,Segall らの研究が示す通り,認知神経科学の発見が時空間にわたって普遍的であると仮定する理由はない.認知的普遍は,前提ではなく,証明されるべき事柄である.ドーパミン受容体,ストレス受容体などの脳を構成する要素は,世界中で類似しているだろうが,その密度は可変であり,歴史的・文化的偶然に左右されるし,ニューロンシナプス,内分泌系の変化は発達的・文化的環境によって引き起こされる.人間の脳は,歴史の内に存在するものなのだ.認知神経科学者は,どのようにして脳の歴史性を把握すべきかを学ばなければならない
  • 著者は,歴史学神経科学の協同を「神経歴史学」neurohistory と名付けた.神経歴史学は,人間の脳と内分泌系が可塑的で,発達的・文化的影響に絶えず開かれていることを前提とする.これによって,進化心理学よりも,より豊かに歴史化された過去への視点を得ることができる.しかし,これは脳を空白の石版として取り扱うことを意味しない.神経歴史学は,発達的・文化的影響が,脳・身体システムと相互作用し,予測不可能な効果を生み出すことを前提とする.こうした解釈は,人間性と複雑な人間のニッチとの関係の中に歴史的変化のベクトルを位置づける歴史記述のモデル (Shryock et al., 2011) によって可能になる.溜め込み強迫は,歴史的・文化的に状況づけられた現象であり,同時に認知的損傷や遺伝的素因とも相関する現象なのである.すなわち,認知システムと内分泌系が 物質的環境と相互作用することよって生み出された創発現象なのだ

文化・歴史と脳の共進化

  • 溜め込み強迫は,人間とモノとがアクターとして構成する特殊なネットワーク (cf. Latour, Hodder) として理解すべきである.人類とモノとの絡み合った関係は少なくとも260万年前から始まった.人類のニッチ(生態学的地位)を理解するうえで重要なのは,これが進化心理学者の仮定するような,安定した「進化的適応環境」とは異なり,絶えず変化する社会的ニッチであり続けているということ.こうした社会的ニッチは,協力や交換,懲罰から成る複雑な道徳的世界をうまく切り抜けるよう要求する.旧石器時代の社会的ニッチは物質的ニッチでもあり,我々は,道具や武器,炉などを製作することで,ニッチを物質的・社会的に改変し,その中でさらに進化してきた
  • 生物学と文化を分離するのは誤りで,初期の社会によって生み出された物質的環境は進化的時間の中でゲノムにも影響を与えている.火の発明は歯や胃の変化を及ぼし(Wrangam, 2009),武器の発明によって,眉弓や犬歯が持つ社会的地位のシグナリング能力が失われた (ボールドウィン効果, cf. Weber & Depew, 2003).我々がその中で生活し進化してきたような物質的環境なくしては人間性などというものは存在しない (Robb & Harris, 2013).遠い真核生物の先祖がミトコンドリアを取り込んできたように,我々のゲノムが,ウィルスの DNA を取り込んできたように,我々はつねにすでにポスト/ヒューマン・サイボーグなのだ
  • 遺伝子と文化の共進化は現在まで続いており,自然と文化の二分法が誤りであることを示している.さらに,人間の身体は,ゲノムには記録されない形で,歴史的変化へ反応する.食事は社会経済状態に影響されるので,貧しい人と豊かな人の体は異なって見える.靴が足や歩き方に与える影響.食料品産業が,顎の発達に影響を与え,親知らずの抜歯の必要が出てきた.養鶏の餌における内分泌攪乱物質が人間に与える影響….いわば,人間の身体は一種の印画紙で,物質的・社会的変化を容易に吸収し,明らかにしてしまう
  • こうした可塑的な性質は,特に脳において明らかで,道具は文字通り脳内の身体地図の中に組み込まれ,自由に取り外しのできる義手のようなものとなる (Blakeslee & Blakeslee, 2007).内分泌系も同様.テストステロンの多い男性はより父親になりやすいが,父親になるとテストステロンは減少する (Getler et al., 2011).子育てに三時間以上を費やしていることを報告した男性は,特にテストステロンが減少している.養育行動は社会経済構造によって規定されているので,テストステロンは社会経済構造をトラックしているといえる.テストステロンは,養育行動以外に,暴力や支配構造などにも関わるので,更なる影響を与えると考えられる
  • 脳に永久的な変化を与える影響もある.他のマウスとの争いに負け続けると,ストレス・ホルモンが恒常的に高いレベルになり (Yap & Miczek, 2007),無気力で従順な行動を示し,よりコカインを摂取することでストレスを和らげるようになる (Snyder et al., 2011).こうした慢性的ストレス状態は,ストレス受容体の減少を招き,脳に恒常的な影響を与える
  • 近年の発見で重要なのは,ストレスはエピジェネティックに遺伝するというもの.養育行動が十分に行われると,海馬のストレス受容体の密度が高まり,子ネズミはよりストレスに対処しやすくなる (Weaver et al., 2004).養育行動を十分に受けなかった子ネズミが母親になると,養育行動を十分に行わない.ストレスは世代を超えてエピジェネティックに遺伝するのである.歴史的トラウマ研究という新しい分野では,ストレスがどのように世代にわたって受け継がれるかを探究しはじめている (Walter et al., 2011; Niew〓hner, 2011)
  • このような研究は,人間性と我々の住まうニッチとの,現在進行中の複雑な弁証法から生じる歴史的変化のベクトルを描きだしている.地球温暖化現象が示すように,我々の歴史はバイオスフィアと絡み合っており (Charkrabarty, 2009),ニッチは我々の行動(「ニッチ構築」)をトラックしているのだ (Laland and O’Blien, 2010).あらゆる歴史的アクター同様,ニッチは我々の行動に予測可能な形でも予測不可能な形でも反応し,それは彼らが一階の行為者性や意図を欠いているという事実とは関係がない (Ingold, 2007)
  • メキシコでの牧羊は,土壌に変化をもたらし,乾燥化を進めた (Melville, 1994).森林の減少が湿地帯を増大させ,蚊の増大をもたらした (McNeil, 2010)….こうした現象は,人間の社会に更なる影響を与える.環境歴史学者は,我々が絡み合っているほかのシステム,あるいはアクター・ネットワークの歴史から切り離されては,人間の歴史は意味をなさないことを示してきた.歴史学の対象は人間性ではなく,人間性とニッチとの共進化の関係に基づく変化のベクトルなのだ.人間性を孤立したものとして扱う歴史観を我々は捨てなければならない
  • ニッチは,気候,生物,水など様々なものを含み,我々の創り出したモノもふくまれる.我々はモノに適応し,モノも我々に適応してきた.チーターとガゼルの進化的軍拡競争(足の速さ)のように.
  • このような見方をとっても,我々が絡み合うモノに一階の行為者性を割り当てるべきではない.19世紀のヨーロッパの工業化に関与した人々は意図的に二酸化炭素を排出したわけではないが,二階の行為者性の行為の結果は現在大問題となっている.24億年前に酸素を大量産出したストロマトライトは,意図せずして,地球にあらゆる生命をもたらした.溜め込み強迫症者の生を蝕むモノは,完全な寄生者のように思われる.彼らは,被寄生者の余剰エネルギーを消費させ,自らを再生産するようにしむけるように進化したのだ.モノは,危険だ.

消費社会と溜め込み強迫

  • 科学は溜め込み強迫を認知機構の障害という観点のみから説明できるような心理学減少として扱う.そして,現在に当てはまることは過去にも常に当てはまってきたと仮定する.そして,この行動がどのようにして始まったのかを適応の観点から探そうとする.実際,単純な溜め込みは,過去においても現在においても,適応的である.旧石器時代の人々は,不確実性へのバッファーとして食物を蓄えただろう.9-10世紀の北ヨーロッパ人は,ヴァイキングの襲来に備えてコインを蓄えた.ヴァイキング自身も,コインや銀を蓄えた.溜め込み強迫はこうした適応的な本能の過剰反応から生じたと論じることは可能だろう
  • こうした説明の問題は,無用なモノを溜め込むような溜め込み強迫はせいぜいこの一,二世紀の現象であるということだ.更新世の人々や,中世ヨーロッパの人々が,不要物を溜め込んだことを示す証拠はない(例外は,カイロ・ゲニザ(文書保管室)で見つかった書類 (Wimmer, 2012) や,初期近代ヨーロッパの印刷された書物).小説における溜め込み強迫の性格タイプは19世紀前には見られなかった.
  • 強迫的収集のルーツは数世紀前まで遡ることができるかもしれない.しかし,仮に強迫的収集の神経基盤が溜め込み強迫と共有されているとしても,二つは異なる行動パターンである.収集行動においては,収集物は整理され注釈などが付され,溜め込み行動における無秩序なゴミの山とは異なる.更に,適応的な溜め込み行動は,溜め込み強迫とは異なり,季節性のものであったり,ヴァイキングの襲来のようなイベントに引き起こされたりするものであり,溜め込まれたモノは,収集物同様に,整理される.適応的な溜め込み者は,満足気に溜め込んだモノを見つめる.対照的に,溜め込み強迫は,獲得の瞬間の後は溜め込んだモノにほとんど興味を示さない.ただそれが廃棄されることについては不安とともに恐れをいだく
  • 溜め込み強迫が非常に近代的な心理学的現象だとすれば,どのようにしてこの現象の増大や,認知機構の損傷との相関を説明できるのか? ここでは,仮説を提示する
  • モノが身体や脳へと深く侵入しているように,モノはアクター・ネットワークのみならず,情動的関係へも侵入しているのだ.Bloom (2004, 2005; Jarudi et al., 2008) によれば,我々は本来二元論的であり,生物とそれ以外を乳児期から区別する一方で,社会認知システムは時に暴走し,本来,欲求や目標を持たないモノにまで,それを帰属してしまう.こうした過剰帰属の最大の産物が,神や悪魔であり,また,モノは過剰帰属によって道徳システムへと組み込まれ,アクター・ネットワークの中に位置を占めるようになる.家族や親族の中で発達した情動的関係は,ペットや家やモノにまで拡大適用される.我々の情動的習慣は無差別で,アクター・ネットワーク内のどのようなものにも適用可能なのだ
  • しかし,こうした情動的関係のみでは,溜め込み強迫を説明するには不十分である.重要な点は,古代や中世ヨーロッパ社会では,再生・再利用が多く見られ,それほど多くのゴミは産まれなかった.毛糸やシルク製の衣類は,繰り返し,ほどかれ,カットされ,再利用された.金属も鍛冶場に戻され再生された.こうした世界で,個人が内側前頭前野に損傷を負ったり,第14染色体に溜め込み遺伝子を所有していたりした場合,どうなるのだろうか? 何等かの行動療法の必要性を感じたかもしれないが,木片や陶片や布の切れ端などを溜め込むことはなかっただろう.なぜならこうしたモノを差し押さえることを物質的ニッチが許さなかったから
  • こうした見方によれば,溜め込み強迫は歴史の産物であり,工業生産の近代的パターンによって生み出された物質的ニッチの文脈で創発してきたものであり,特に消費の成長と関連付けられる.消費の増大は貧困を緩和し,女性やサバルタンの能力を高めるなどの良い効果をもたらしたかもしれない.しかし,フランクフルト学派以降の批判的歴史学は,より暗いヴィジョンを提示し,消費の習慣は罠や中毒であると考える.購買をあおる資本家と,無力な大衆の欲望を操る心理学者の邪悪な連合によって消費の欲望は生み出されているのだ.大衆の阿片は,宗教ではなく,モノである.権力の秩序は,支配と制御を通してではなく,ましてや監視によってでもなく,神経系を通じて直接に作動するのである.これはオルダス・ハクスリーが『すばらしい新世界』で描いた世界であり,人々が自らの圧政に喜んで同意する際にも,全体主義的な権力は邪悪かどうかというのが重要な哲学的問いである
  • 資本主義に対する批判的歴史学は,購買者が新商品を入手することを考えることでドーパミンが高まり,買い物依存を引き起こしさえすることを示す結果と整合的である (Black, 2007).溜め込み強迫は買い物より遥かに稀な現象だが,それでも資本主義近代を校正する行動である.しかし,溜め込み強迫は欲望によっては簡単に説明できないため問題となる.その理由は,溜め込み強迫は,ドーパミン報酬系ではなく,主にセロトニン系に関係する行動だからである.セロトニンは脳内では神経伝達物質として働き,確信度と安心に関与する.MDMA(エクスタシー)は,セロトニン作動薬であり,一時の幸福感を与えるが,シナプスに貯蔵されたセロトニンが枯渇すると,抑うつと不安が忍び寄る.仮に溜め込みがセロトニン系の障害であるならば,モノはセロトニン作動薬と近似的な効果を持っているのである.溜め込み強迫症者は,溜め込んだモノを捨てようとすると極度の不安に襲われるが,ある意味,モノは拡張された身体となっているのである.
  • 溜め込み強迫の重要な特徴として,それがゴミの経済に依存しているという点がある.何かを捨てるということは,アクター・ネットワークの中でモノのメンバーシップを否定する行為である.同様に重要なのは,果てしなき同一性を生み出す大量生産である.もしひとつの牛乳パックに人格性と永久的な有用性を帰属させたとすれば,無数の牛乳パックにそれを見出すことになってしまうのである.こうした観点によれば,溜め込み強迫は,近代における創発的現象である.認知機構の潜在的性質が近代資本主義によって生み出された物質的ニッチと予測不能な形で相互作用することで生じたのである

結論

  • 消費の批判者は,消費の欲望は狡猾なマーケティングによって人工的に生み出されたものであると論じてきたが,これが全てではない.慢性的にストレスを与えられたマウスがコカインによって自らを治癒するように,消費者は,消費や溜め込みによって慢性的ストレスを治癒しているのである
  • 溜め込み強迫は後期資本主義に対して,異なる角度からの理解をもたらす.モノは親族や家族の代替品なのだ.溜め込み強迫において,歴史上,特殊なのは,モノが循環することをやめたことだ
  • 溜め込み強迫は,ある種の人々にとっては,有用性と不用性の階層を創造し執行することが難しいということを示す.この階層は,ゴミの経済だけではなく,ネオリベラルの経済全体にとっても重要なものだ.富者と貧者,価値と無価値が分割された世界において,モノの階層が人間の階層を反映しているならば,溜め込み強迫症者は,非常に寛大でリベラルな心の持ち主であるといえる.通常は豪奢な製品に適用されるような尊厳を不要なモノに与え,家族のように扱い,その損失を惜しむ.我々が憐みや軽蔑を持って,溜め込みを障害として扱うことは,もしかすると我々自身の見当違いの優先事項に対するコメントなのかもしれない

記号的思考と人間の道徳の進化

Moral Psychology: The Evolution of Morality: Adaptations and Innateness (A Bradford Book)

Moral Psychology: The Evolution of Morality: Adaptations and Innateness (A Bradford Book)

Sinnott-Armstrong, W. ed. (2007) Moral Psychology: The Evolution of Morality: Adaptations and Innateness

  • Ch.2 Cosmides. L. and Tooby, J. "Can a General Deontic Logic Capture the Facts of Human Moral Reasoning?" (えめばら園
  • Ch.5 Tse, P.U. "Symbolic Thought and the Evolution of Human Morality" ←いまここ
    • 5.1 Dietrich, M.R. Just-So Story for Symbolic Thought? Comment on Tse ←いまここ
  • Ch.6 Sripada, C.S. "Nativism and Moral Psychology: Three Models of the Innate Structure that Shapes the Contents of Moral Norms"
    • 6.1 Harman, G. "Using a Linguistic Analogy to Study Morality" (noscience!)
    • 6.2 Mikhail, J. "The Poverty of the Moral Stimulus" (noscience!)
    • 6.3 Sripada, C.S. "Reply to Harman and Mikhail" (noscience!)
  • Ch.7 Prinz, J. "Is Morality Innate?" (えめばら園

この章はクリエイティヴな思考が爆裂していて,まったく感心しませんでしたよ.
1. 人間の記号的思考はどのようにして現れたか

  • 認知的・知覚的・情動的能力は人間と動物の間で共有されているが,人間をサルから質的に隔てる一群の核となる能力がある.それが自発的に記号を産み出し操作する能力だ.
    • 動物も初歩的な方法で記号使用を学習するように見えるが,それらを自発的に生み出すことはないし,柔軟に生産的に再帰的に用いることはできない.チンパンジーボノボを,恣意的なサインに意味を連合するように訓練することはできるが,そのような連合には多くの試行を必要とする (Pettito & Seidenberg, 1979)
    • 子供は記号とその指示対象を一発学習 one-shot learning することができる.動物でも特殊な一発学習(ガルシア効果)は存在するが,これはハードワイヤードなものに限られる
    • 動物で広く見られる反復による連合学習は,子供による記号の指示対象の一発学習や,子供が記号の指示対象を思いのままに変更させる容易さからは程遠い.こうした学習は,指示と指示対象が共起することなく生じるし,モノをまったく直接経験することさえなくとも生じるのだ.たとえば,「祖先」とか「天国」という言葉の意味の学習.
    • 記号と指示対象との間のこうした恣意的で柔軟な関係こそが,真正の記号的思考の特徴であり,記号的思考を単なる連合から分かつもので,動物が欠いているものだ
    • 統語や言語は,恣意的な記号を非統語的に理解し使用するより根源的な能力よりも最近の発達である.
    • 記号的思考こそが人間を質的に他の動物から隔てるものであり,芸術や音楽,ダンス,類推的推論,抽象的思考,自発的な記号の生成と使用といった人間固有の能力はすべて共通した起源を持つという仮説を前半で検証する
  • ここでの中心的な主張は,チンパンジー的祖先においては機能的に分離しモジュールの様に遮蔽されている (Fodor, 1983) 知覚や運動,認知能力を支える神経回路が,より最近の祖先においては,新しいタイプの注意的結合によって相互作用するようになったというものだ
    • このよう変化によって,これまでモジュール内に閉じていた演算子が,他のモジュールの被演算子に作用するようになった.モジュール間結合およびモジュール間同調が人間固有の認知様式の誕生の基礎をなす

1.1 記号の本性

  • 記号は次の2つの重要な特徴を持つ.
    1. 記号は長期記憶あるいは短期記憶に貯蔵できる心的表象であり,一つ以上の恣意的な表象を表すことができる
    2. 記号は,柔軟に既存のあるいは新しい指示対象に,新しくマッピングしなおすことが可能であり,それには連合を形成するための多くの学習試行は必要としない.記号は恣意的なのである.記号の意味は記号と指示対象の共起の尤度や割合に依存しない
    • 動物は (1) の意味の情報を処理する能力を持つかもしれないが,(2) の意味での記号を処理する能力を持つのは人間だけである.(1) の能力を持つ心はオブジェクトやイベントと指示対象との間に複雑な連合を形成することはできるが,それは「連合的」なものであって,真に記号的なものではない
    • 瞬間的にオブジェクトの指示対象をマッピングしなおす能力は人間固有であり,ぼくたちの認知が真の意味で記号的であることの根底にある

1.2 注意とオブジェクト・ファイル

  • オブジェクト・ファイル (Kahneman, Treisman & Gibbs, 1992) は,さまざまなモダリティにわたる複数の種類の情報を,共通の束ねられた表象へと結合する注意プロセスのメタファー.さまざまな構想があるが (Pylyshyn & Storm, 1998; Carey & Xu, 2001; Scholl, Pylyshyn, & Feldman, 2001)短期記憶バッファの中に一時的なエピソード表象として統合されている,ある空間内で経時的にトラックされた「フィギュア」であるという点は共通している.この空間は,必ずしも物理的空間である必要はなく,たとえば音楽的空間(例:オーケストラの中で特定の楽器をトラックしつづける)でもよい.
    • オブジェクト・ファイルは「オブジェクト」という語を含んでいるが,オブジェクト・ファイルは必ずしも外界のオブジェクトに対応しなくともよく,完全に感覚を剥奪されてもトラックしつづけられるような思考や計画でも良い.
    • オブジェクト・ファイルの内容やラベルは変わっても良いが(鳥か,飛行機か,いや,超人だ!),オブジェクトはそれが結び付けられるオブジェクト・ファイルを有するがゆえに,継時的に単一のオブジェクトであり続ける.
    • オブジェクト・ファイルの内容は中くらいあるいは高次のレベルにあると考えられており,前注意段階の表象は注意を向けることができず,そうした内容はオブジェクト・ファイルに追加することができないとされる (Wolfe, 2003; Treisman & Gelade, 1980).注意は,初期知覚システムによって自動的に処理された後の表象(例:色,テクスチュア,表面,抽象的なタグ,高次の概念情報 (Gordon & Irwin, 2000))にのみ,操作を加えることができる.
    • オブジェクト・ファイルの内容は,ボトムアップの感覚情報だけではなく,高次の認知的操作(心的回転・注意)によっても変化するため,感覚入力自体が変化せずとも,オブジェクト・ファイルの内容は劇的に変化することがある.
  • ここでの重要なポイントは,記号や記号的思考とは,一時的なワーキングメモリの中のものであれ,長期記憶の中のものであれ,それが恣意的な指示対象と記号との結合に関わるため,内在的に注意に関わるものであるということ.
    • 反復や意図的な訓練によって,恣意的な表象が記憶の中で結合することはあるが,これは人間と動物が共有する連合学習の遅いプロセスである.
    • 対照的に,注意を向けることで恣意的な表象を,オブジェクト・ファイルに結合するプロセスは一瞬で生じる.一度,記号と指示対象がチャンク化されれば,単位として想起期され,それ以降は注意なしでも処理できるようになる,しかし,符号化の段階では記号と指示対象のワンショット結合は,それらが共通の,オブジェクト・ファイルを占めているから生じるのである.(オブジェクト・ファイル内での)バインディングこそが注意であり,それゆえに記号は内在的に注意にかかわるものである

1.3 オブジェクト・ファイルはどのように変更されるか:モジュール間結合

  • 動物も人間のようにオブジェクトをモニターしたり選択したり無視したり注意したりするので,人間のオブジェクト・ファイルの類似物は持っているはずだが,人間と動物のオブジェクト・ファイルは異なる.
    • 例えば犬の木に関するオブジェクト・ファイルの内容は,聴覚や触覚や嗅覚と結びついたマルチモーダルなものかもしれないが,あらゆる情報は木に関するかぎりの物であり,それに結び付けられたオブジェクトやイベントを含まない (encapsulation).直接関連しない情報を含まないので,妨害されないという意味では適応的かもしれない.
    • 対照的に人間のオブジェクト・ファイルは注意や記憶に由来するどんな情報でも含みうるもので,真の意味でのモジュール間結合を可能にする.木が「友達のボブ」や「真理」を意味することもありえる.こうした時,オブジェクト・ファイルの中の「木」要素には「現実」,「ボブ」要素には「非現実」といったタグが付いているはずである.そうでなければ,木をボブと間違えてしまう.
    • 認知のモジュール性・遮蔽が動物の心を認知的「ノイズ」や誤表象・妄想・幻覚の危険から守っている
  • 動物は生じるかもしれないイベント,生じたかもしれなかったイベントを内的にモデル化することはできるが,現実世界で生じ得ないことはモデル化する想像力を持たない.想像は恣意的な内容や演算子が共通のオブジェクト・ファイルにダウンロードされた時に生じる(翼を持った木)
    • あるオブジェクトを別のオブジェクトに位置づける演算子へとアクセスすることで新しい表象が創造される
  • 人間の(木に関する)オブジェクト・ファイルは,木に関係するあらゆる情報以外にも,それに関係のない「自分の妻」のような情報も含む事ができる.重要なのは,木のオブジェクト・ファイルに「妻」概念へのラベルあるいはポインターをダウンロードすることが自動的あるいは無意識的に生じうるということ
    • 記号的思考は,内在的に注意にかかわるが,必ずしも意図や意志に基づいて構築されるものではない
    • 想起は人間の記号的思考の基礎的なアーキテクチャの結果である.犬は木や藪を見て,外界や経験においてそれらと直接結びついているもの以外を想起することはない.動物の認知は,記号,想起,メタファーを欠いており,内在的に字義通りな literal ものなのだ

1.4 モジュール間結合が新しいタイプの心的機能障害を生み出した

  • 人間の認知は犬やチンパンジーよりも豊かではあるが,すべてがすべてを想起させるような連合の崩壊の危険や,どれが現実でどれが自己によって産み出されたものかの境界が曖昧になるような幻覚に陥る危険がある
    • 統合失調症やさまざまなタイプの精神疾患は,精神的に健康なものに記号的で隠喩的で創造的で想像的な試行を可能にするような神経システム・認知操作の機能疾患の結果である可能性がある
    • こうした疾患の神経・遺伝的基盤を検証することで,モジュール間結合を生じる神経回路が明らかになるかもしれない

1.5 記号的思考 vs. 統語的思考

  • 統語処理は必然的に記号的であり,記号処理は必ずしも統語的ではないので,記号を使用し認識する能力は言語の進化に先んじていなければならない.言語は本質的に記号の処理と発話に関わる.
    • モジュール間結合仮説によれば,原初的なダンスやアートや音楽やユーモアや隠喩や記号的推論は記号に対する統語的処理よりも早く進化したことになる
    • 原初的な記号は,ものや動物やひとを表す棒や石だったかもしれないし,身体自体が記号として用いられたかもしれない.誰かの真似をすることは,身体と指示対象(他者)とを同じオブジェクト・ファイルに位置づけることを必要とするから
    • 人間の初期のコミュニケーションは,言語よりも,模倣の形をとっていたとする論者もいる (Corballis, 2002; Donald, 1991),そうした記号使用は化石に残らないので,アートの証拠を持ってして記号的推論の始まりだと考えるのは間違い.
  • モジュール間結合によって,オブジェクト・ファイルが他のモジュールからの情報を含むことを可能にした.
    • 最初の結合は注意を必要とするが,一度チャンク化され,長期記憶に貯蔵されれば,注意なしでもこうした記号は使用可能になる
  • モジュール間結合は,原初的な記号的表現の発生以降,長い期間をかけて進化したと考えられる,統語の発生も説明可能である
    • 言語と数は,記号に対する再帰的な操作規則の適用をそのコアに持っている (Chomsky, 1965; Hauser, Chomsky, and Fitch, 2002).再帰的な計算自体は動物でも見られるが(移動中の自分の位置の表象,継時的な運動行為),その計算はモジュール内に閉じている.こうしたモジュール的で領域固有の再帰的計算が,進化の過程で領域一般的なものに進化したのかもしれない (Hauser, Chomsky, and Fitch, 2002)
    • いちど再帰的計算が記号に適用されるようになると,記号は再帰的に結合され,生産的になる.自然淘汰・性淘汰がこの能力に作用し,現在の言語能力を生み出す
    • ここでのポイントは,統語や言語の発生を説明することではなく,記号的認知の発生は統語や言語の発生より先んじていなければならないという主張

1.6 モジュール間神経同調

  • モジュール間結合は認知的な理論であるが,その基礎となる神経基盤についての妄想も役に立つかもしれない.ここでの妄想が間違っていても,前述の認知的アーキテクチャの変化については正しいはず
  • ある種のモジュール間結合はボトムアップに生じる可能性がある.すべての文化にダンスがあるのは興味深く,火星人は人類が 1 Hz ほどの空気の振動に合わせて身体を揺らすのを興味深く感じるはず.また,人類は香りや光や味のリズミカルな振動には身体を同調させない
    • こうした非対称性はモジュール間結合の神経基盤の手がかりになるはずで,ダンスはモジュール間結合によって生じる新奇な行動の最も単純な例と言える
    • 聴覚刺激に反応するニューロン経細胞が,運動ニューロンを同調させることで,ダンスが生じる.こうした同調を可能にする遺伝的変異が生じる前は,ダンスは認知的にも運動的にも不可能だったはずだ.こうした同調は皮質-皮質間の,あるいは,皮質-視床間の興奮性結合が必要なはずで,これは人間固有と思われる.
  • こうした同調は記号的指示対象を含むオブジェクト・ファイルを必要とせず,単にニューロンの活動が同時に活性化すれば良いだけである.
    • ひとのジェスチャーは発話に同期し (McNeull, 1985) ,言語の意味を補足する (Goldin-Meadowm McNeil, & Singleton, 1996) が,これらは前言語的な発話や感情的内容に同調しているのであり,こうしたジェスチャーと発話の同調は,統語的な記号操作や記号的思考の発生以前に生じていた可能性がある (Corballis, 2002; Donald, 1991)
  • モジュール間結合仮説は,刺激が共通の時空間的性質(急峻に変化する,ゆっくりと変化する,強い,弱いなど)を持っていたなら,それらの神経における符号も互いに共通の時空間的性質(特定の周波数やパターンでの発火)を持っているだろうという前提のもとに成り立っている
    • “wawawawa” という聴覚刺激に対する聴覚野の活動は,スムーズで波打つような手の運動や波打ったカーブ(視覚)を同調させ,それらに連合される ⇔ “tiktiktiktik”
  • 神経同調とモジュール間結合は,直接的・間接的な神経結合がある場合のみ生じる.チンパンジーや他の霊長類には存在しない神経結合が人間には存在するはず
    • 単に結合が多いのではなく,種類が違うはずである.チンパンジーではモジュールは,直接結合していないため,比較的独立に機能しているが,人間においては一方向あるいは両方向の軸索結合を持ち,あるいは,視床を介して間接的に結合しているはずである.Diffusiton Tensor Imaging で検証できるね.
  • Ramachandran & Hubbard (2001) は,共感覚は領域間のクロス配線によるもので,それが同時的な知覚を生じさせると論じた.数と色の共感覚者は,数領域と色領域の間の結合を持っているのかも.共感覚は遺伝性で,X 染色体に関連しており (Bailey & Johnson, 1997),神経線維の過剰発生か刈り込みの失敗が関係しているのかも.
    • モジュール間結合は,それぞれのモジュールの神経発火の同期的パターンがゆえに生じるというものなので,共感覚とは直接関係ないかもね

1.7 類推的認知の誕生

  • あるモジュールで表象されたイベントは,他のモジュールで表象されたイベントを同調させ自発的に想起させるため,隠喩や類推に関する人間の能力がモジュール間結合から生じるかもしれない.モジュール間結合仮説によれば,類推の起源は,刺激の性質に反応する神経の同調であるため,類推は文化を超える可能性があることを予測する (Lakoff & Johnson 2003)
    • たとえば,音の大きさや abruptness は,視覚刺激の明るさや abruptness に対応する
    • しかし,モジュール間で神経を同調させるものは刺激の時空間的(強度,急峻さ,連続性など)や物理的特性(ピッチ,色)そのものではないので,神経同調は感覚運動的なものに限定されず,意味的・認知的・情動的特性もモジュール間の同調を引き起こすかもしれない.たとえば,喜びは「高さ」や「上」と,知性は「速さ」や「鋭さ」と.これらが文化普遍的かは経験的な問題だ
  • 感覚間の類推的対応よりもより深い類推は感覚モジュールが認知モジュールを同調させることで生じてきたはず.類推的思考は動機的発火の副産物である.モジュール間の発火パターンが共有されることで,同調が生じる
  • モジュール間結合は,恣意的なオブジェクトで恣意的な指示対象を表すような記号的思考をだけではなく,自動的なモジュール間の活性化を引き起こした.類推とメタファーは人間の認知の重要な側面であり,記号的思考と同じ理由によって生まれた.
    • モジュール間結合が生じると,あるモジュールで注意を向けられたオブジェクトは,自動的に他のモジュールの情報を活性化し,それがオブジェクト・ファイルに追加される.視覚・聴覚的なイベント・オブジェクトが補完おモジュールの恣意的な活性と連合されるのだ
  • モジュール間結合が生じる前は,機能的に分離したモジュールで,「文字通りの」方法でオブジェクトが表象されていたが,神経回路の発達を左右する遺伝的変異が生じると,結合がモジュールを超える.
    • 人間の心は表面的に異質なもの同士を結び付ける能力があるが,連合の過剰による崩壊を防ぐために,意味のない連合を抑制し,有意義な連合を強化する機構を発達させる必要があった
    • したがって,人間のオブジェクト・ファイルは単に演算子と被演算子を含むだけではなく,妨害を克服しトラックする機能を保つような機能も持っているはずであり,実行系回路がこの役割を果たしているのかもしれない

1.8 モジュール間演算子と人間の美学の誕生

  • モジュール間結合の結果として,記号的思考が可能になるだけではなく,演算子が新しいタイプの非演算子と結合するようになり,あるモジュールの演算子がこれまでは遮蔽されていた別のモジュールの非演算子に作用するようになる
    • たとえば,埋め込み可能な運動系の演算子が物理的な運動だけではなく,記号に作用できるようになれば,統語が生じるかもしれない.また,声の情動的な内容に作用する演算子が,声以外の要素に作用するようになれば音楽が生じるかもしれない.
    • 人間の芸術や美学は,演算子が脱遮蔽化され,非変化された結果かもしれない.生殖相手の健康を判断するような演算子が,視覚的光景に作用するようになることで,そこにエロティシズムや美が付加されるようになる.人間の演算子は領域一般的なもので,動物は音を聴くことはできるが,音楽を経験することはできない
  • こうした進化の過程は直接検証できないが,現代の人下の行動におけるモジュール間結合の役割を検証することで,モジュール間結合が祖先の心と行動にもたらした影響を推測することができるだろう

1.9 モジュール間演算子と抽象的,宗教的,因果的認知の誕生

  • 抽象化の本質とは,感覚入力には明らかではないパターンを検知する能力である.パターン抽出の能力は動物にもみられるが,それらはモジュール内に閉じている.モジュール間結合によってモジュール性が崩壊すると,パターン抽出が知覚的でないものにまで適用されるようになる
    • 知覚的パターン認知が抽象的なパターン認知へと変化した例としては,因果推論が挙げられる.動物も感覚入力に対して因果を見出すことはできるが,感覚入力に明らかでない因果関係を検知することはできない.その結果,動物の因果性検知は時空間的な連続性・同時性から生じる物理的な関係のみに限定される.
    • 人間は,時空間の連続性を超えて因果性を検知し,「今,ここ」を超越することができる.たとえば,生前や死後のことにまで気づくことができる.動物は知覚的に「点を結ぶ」が,人間は抽象的に「点を結ぶ」ことができ,知覚できないような存在物(神や悪魔)や多様な因果性(カルマ,幸運,のろい,祈り,運命)によってイベントを説明する
    • 宗教は,パターン認知の演算子が領域一般的になったことによって発展した.たとえば,有生性 animacy を検知する演算子が,モジュール間結合によって,領域一般的に作用することで,多くのイベントに意思や性格,意図性などが帰属されるようになる.人間の心が記号的になることで,先天的なアニミストになった
    • 人間の宗教性は,祖先における前記号的なパターン認知を,領域一般的にイベントへと適用することで生じた
  • 心の理論も,抽象的しこうする能力と共に現れたのかも.人間のみが抽象的で観察できない心的状態(「注意」とか「見ている」とか)で,行動を解釈するシステムを持つようになった (Povinelli et al., 2002).観察不能な心的状態を表象するには,観察不能な因果性のパターンを検知できなければならない.抽象的思考が可能になる前には,心の理論は不可能なものだったのかも.

1.10 遊びの本性の変化

  • モジュール間結合の結果,遊びの本性にも大きな変化が生じた.動物の子供の遊びは成体の行動(狩りや闘争)を真似することが多いが,人間の子供の遊びは,人間でないものを真似することにも及ぶ.
    • 人間は身体をどんなものの記号としても使うことができるので,動物やモノのや妖精や翼をもった卵といった存在しないものの真似もできる
    • 身体を記号化することができれば,それをコミュニケーションにも使える.Donald (1991) によれば我々の祖先は模倣がコミュニケーションの主要な手段であった段階を経ているという.

2. 記号的思考と人間の道徳の進化
2.1 記号的思考が道徳性を産み出した

  • 記号的思考の発生は人間に真の道徳性と非道徳性,正邪の可能性を与えた.いちど行為が記号化されると,行為は,善,悪,正,誤といった抽象的なクラスを表し,それらのインスタンスとなりうる
    • 記号的思考は,行動の新しい次元をもたらし,たとえば,具体的なものに対する所有権を超えた「アイディアの所有権に関するなわばり」の表現などを可能にした.
    • サルも,愛着や社会的知性,好悪,おそれ,なわばり…などに基づいて行動するが,これらは道徳性ではない.こうした社会的な感覚や思考のモードは道徳性の前適応として考えられる.
    • サルは道徳的判断や,禁止,規範,原理,法,(非)承認,命令,善悪の概念などを欠いている.サルが道徳性を欠いているのは,記号的認知を欠いているからで,動物は一般的に道徳的でも非道徳的でもなく無道徳 amoral なのだ
    • 動物が好ましくないことをした際に,我々は動物を牢獄に入れたりするのではなく,彼らの嫌悪することを行い,行動とその結果についての連合を形成させる

2.2 心における記号的カテゴリーの instances としての道徳的行為と非道徳的行為

  • 道徳性はシンボル化を行う能力,そして,カテゴリー的抽象化のレベルまで一般化を行う能力の双方に根差している.シンボル化によって,個々の行為は善/悪,許容可能/不可能,承認・非承認といったクラスのインスタンスになる
    • たとえば,肉を盗む行為は,いちどシンボル化されると,肉を盗む以上のことを行っていることになる.肉は,権利と結びついた「財産」というクラスのインスタンスなのだ.
  • 犬の非記号的心について考えてみよう.彼は今しゃぶっている骨をどのように考えているだろうか.骨は彼が今それを保持しているので,彼の骨なのであり,所有物のような抽象的な意味で犬は骨を所有しているわけではない
    • もし大きい犬が来て,彼の骨を奪っていったら,怒ったりフラストレーションを抱えたりするだろうが,「大きい犬が私の財産を保持している」とは考えない.「大きい犬が,それまで私が保持していた骨を保持している.私は骨を取り戻したい」.
  • 対照的に,人間は,誰が今保持しているかによらず,財産を所有することができる.これは私や社会のメンバーが私の表象と共にオブジェクトの表象を共通のオブジェクト・ファイルに位置づけることができるから
    • さらに,シンボルが語として書きだされることで,所有権は永久に存続する形式的な特殊なタイプの存在であるという印象をつくりだす.
    • オブジェクト・ファイルが誰かの心に産み出される限りにおいて,所有権(やその他の抽象的・法的な概念)は存在しうるのだ.誰も存在せずにこうしたオブジェクト・ファイルを生み出すことがないとしたら,私は家を所有しているとは言えない.
    • 法的/道徳的地位は,プラトニックなものではなく,記号的な心を必要とし,そうした心の中にのみ存在するのだ

2.3 道徳的行為と非道徳的行為のドメインは記号的でありうる

  • 記号的処理の別の効果は,行為が記号的な領域においてなしえるようになったというもの.
    • X 氏を憎んでいる場合,彼の会社や理論を誹謗中傷することができるのは,それらの記号が彼を表すことができるため.縄張りに関する古い衝動は,国益や知的財産といった抽象的な表象への侵害対しても引き起こされる.記号的領域における個人のみならず,社会運動やアイディアに対しても,攻撃感情を持つことができる.ひとを憎まずして,ひとのメンタリティを憎むことができる.こうしたことは動物には不可能.
  • 人間の心は記号の領域では,ほとんど制約のない力と自由を持ったため,記号的でないものの価値を低く見積もる傾向がある.
    • 特に身体に対してそうした傾向が当てはまる.身体は拒絶され,不純で衰えやすいものとして捉えられる.キリスト教は性行為と自慰を邪悪なものと考える.多くの宗教で,同様の理由から,女性は拒絶されやすい
    • さらに,男性は,高い道徳性を主張しつつ,女性の身体への性欲の抑圧することによって,女性に対する神経症,偽善,ミソジニーを発症する
    • 身体や快楽,充足を祝福するような宗教においてさえ,身体はシンボル化され,何か良いもの,生命や心正さ,愛を象徴するものとされる
    • 身体は良いものか悪いものか? これまで,どのグループもすべてのメンバーに道徳性を与えることに失敗し,無数の死や苦しみを招いている.その理由は,道徳性は,良さ,快適さ,正しさの感覚に基づいており,こうしたシステムは趣味やパーソナリティに由来し,それらはひとによって異なるから
  • こうした点において,William James のPragmatism and the Meaning of Life (1907) における深い洞察は示唆的である.彼によれば,(多くのひとびとにとって)真理とは事実と命題の正確な対応ではなく,モデルや理論と命題の整合性でもなく,単に,疑念の停止である
    • 疑念や不確実性は心地よくないものであり,こうした疑念を停止させようとし,確実性を求める.ひとびとは,正しいと思われるような信念にぶつかると,心地よさ,証明された感じ,自由さ,ときに神聖さを感じる.安全さと確かさへの到達が真理なのである.改宗者の熱狂は,疑念による不快から逃れて,確実さを求める欲求に由来する.
    • 一方で,作家や芸術家,思想家,探検家,科学者のパーソナリティは,疑念と不確実性を住処とし,新しい可能性の探求を楽しみ,ドグマを拒絶する
  • 真理観がパーソナリティに根差しているように,道徳性(神は存在するか,客観的な法則を実体化するか)もまた個人的な直観や欲望に根差している.ひとはこうした直観や欲望から出発し,理論を形成し,正当化するのだ.
    • John Rawls の正義論が,Jefferson 的な理想と良く類似した正義と法のモデルに行きつくのは驚くに値しない.なぜならこれこそが直観的な最終状態で,Rawls はそれを論証と根拠で正当化しようとしたのだから.彼が理論を提示したとき,結論は推論から創発するように見えたが,実際は逆である.道徳理論は,どんなに理性に基づいて構築されていても,それのみではひとびとから拒絶されるだろう.
    • 人間の道徳性は非合理的な衝動に根差しているが,理性に根差していることを装うべく合理的な正当化の衣をまとっている.道徳性や正邪の構想について衝突が生じるのは,ぼくたちが選択や活動のさまざまな領域において衝突する欲求と感覚をもっているからである
    • 人間の道徳性に共通なのは,記号的であるということである.身体をどのように価値づけるかは道徳体系によってそれぞれ異なるが,犬にはできない形で身体を記号として捉えているのである.犬にとっては,身体は身体に過ぎない.人間においては,乳児ですら,身体は記号なのである

2.4 人間の邪悪の複数の記号的起源を理解する

  • ここで,悪は,主体の心やそれがケアするものを傷つける(可能性のある)ものとして,主体の心に相対的に,操作的に,定義される.善はその逆で,主体の心やそれがケアするものを益する(可能性のある)もの
    • 帰結を重視するか,意図を重視するか,といった多くの立場がありうるが,ここでの目的にはこれで十分
  • 人間の行為や観念は記号的な表象に対して働きかけるため,動物には行うどころか考えもしないような行為や観念を持つことができる.
    • たとえば,X を信じている者,Y のようにみえる者を皆殺しにするという観念を動物は持つことができない
    • あるグループの個人全員を破壊しようと欲することができるのは,そうした個人は,実は,個人ではなく,記号だからだ.そうした記号は,何か嫌悪すべきもの,撲滅すべきものを表しており,個々人は同じ記号の変種に過ぎない.
    • 個人を同一の記号の変種として見なす時,個人はトークン化されている.「貪欲」や「女性」や「悪」といった概念を撲滅することはできないので,記号を消去しようとする.したがって,人間の悪の記号的起源は,個人のトークン化,および,それを記号として扱うことにある.
  • 人間の悪に立ち向かう方法は,単に望ましくない行動を止めるだけではなく,トークン化から脱することである.
    • 人間の脳は努力を最小化する傾向にあり,既存のカテゴリーや記号のトークンのレベルで個々のひとびと,オブジェクト,イベントを扱おうとする.
    • 変化盲もこの表れであり,ジェンダーや人種,年齢といったカテゴリーが切り替わらない限り,あるいは,よく注意して個々の特性を符号化しない限り,ひとが別のひとに置き換えられても気づかない
    • 過去の偉大な精神的リーダーは,トークン化の危険を良く知っており,憐みや愛を高め,また,個々のイベントの固有性に注意を払うことで,心を変えていかなければならないと強調した
  • 脳がトークン化する理由のひとつは,努力の最小化だが,それだけではない.
    • 扁桃体はあるトークン化のレベルで作動するようにデザインされており,それゆえ素早く危険を察知することができる.False alarm を高めても,miss を減らしたほうが適応的だったのかもしれない
    • トークン化やステレオタイプ化は感覚や注意の負荷を減らす認知的な戦略かもしれない
  • トークン化とは別の,悪の記号的起源は,他者に心理苦痛を与えることで快楽を得るサディズムである.サディズムには動物にはない心の理論が必要とされる
    • 前述したように,心の理論には記号的・抽象的思考が必要とされる.サディストは内的に犠牲者の心的状態をモデル化し,犠牲者に対して自らが及ぼす力から喜びを得る
    • 心理的苦痛は目に見えず,非記号的な心には表象できないため,人間だけがサディストたりえる
  • 興味深いことに,良心と共感を欠いていると考えられるサイコパスは,他者の痛みを概念化する能力を欠いていることから生じると思われる.その点でサイコパスは,サディストとは逆である
    • 犠牲者からすればどちらも悪であることには変わりはないが,良心をまったく欠くサイコパスに責任があるかどうかは微妙である
  • さらなる悪の記号的起源は,自らがおこなっている行為について自らに責任がないと概念化する能力である.つまり,自らは単に命令に従っているだけであるとする能力だ.Hannah Arendt はこうした人間の悪の起源を指して「悪の平凡さ」と呼んだ
    • 誰もが責任がないと感じている限り,その悪を止めるものは誰もいなくなってしまう
    • より新しい例としては,非合法であることを知りながら熱帯雨林の伐採に手を染める企業の社長で,彼は自らの家族を養わなければならず,また,彼がしなければどうせ誰かがすると考えている
  • また,すべての悪の起源は金である,あるいは貪欲さ,身勝手さであると一般的によく言われる.しかし,動物は,食べ物・なわばり・性において,貪欲で身勝手である.人間の貪欲と動物の貪欲との違いは,記号的であるかどうかだ.
    • 人間は,食べ物・なわばり・性の取り分を最大化しようとするだけではなく,それに記号的に結びついたあらゆる事物をも最大化しようとする.動物はナッツに群がるかもしれないが,人間は履歴書に名誉と威信を詰め込む
    • 動物は良い巣をつくって繁殖相手への魅力を増大させるが,人間は正しいキャリア,正しい意見,正しい友人を作って繁殖相手への魅力を増大させようとする
    • 一般的に,人間の記号的認知は,非記号的な霊長類の近縁と共有する欲求や情動(性欲,おそれ,攻撃性,貪欲,計略,なわばり,嫉妬…)の最上部で作動する. こうした非記号的な衝動を記号的に行使し充足させることに悪の起源がある
  • 悪の起源はほかにも多くあるが,最後に考察すべきは文化である.人間は記号的文化を持つため,情報や行動,態度は世代を通じて受け渡される.悪い意図や行為につながる情報や行動,態度が文化において培われるとき,文化自体が悪の起源となる
    • アメリカの資本主義文化は善も生み出したが,悪も同様に多く生み出す.市場は価格を決定するためのシステムであり,善悪・美醜・真偽を決定することはできない
    • また,資本主義が心に浸透するにつれ,これまで売買の領域ではなかったものにまで,市場的態度が踏み込むようになった.ひとまでもが商品とみなされるようになった.インプラント,手術によって商品を改良し続けなければならない.ひとが目的ではなく手段としてみなされる.出世のためにひとを利用する,知りながらの汚染
    • なげかわしい!

2.5 人間の善良さの複数の記号的起源を理解する

  • 記号的認知は人間に善をなす可能性も与えた.善(親切 kindness)は他者をトークン化しないことによって生じる.そうした時にはじめて他者の固有のニーズに応じることができるからだ
    • 他者の変化し続けるニーズに注意を払うためには,他者の心を内的にモデル化しなければならない
    • したがって,親切は動物には不可能である.動物は愛情ぶかい affectionate ことは可能であるが,親切であることはできない
  • 善をなすには,それを生み出すように精神を鍛練しなければならない.そうした精神とは,親切で憐みぶかいものであり,注意ぶかく,クラスやトークンではなく,個人へと焦点の向いたものだろう.
    • 悪と同様,善も動物と共有された非記号的な欲求や衝動の上に創発する.Affection, love, community, compassion, nurturing, protecting, parenting, commitment bonding…
    • しかし,善と悪が互いに排他的な欲求や衝動から生じると考えるのは,単純すぎるだろう.たとえば,過保護は受益者を害する.過小な攻撃性は愛するものを危険にさらす
    • 道徳性は向社会的な欲求の enactment と等置されてはならないし,非道徳性は破壊的な欲求の enactment と等置されてはならない
  • 善悪はぼくたちの心が記号的であるという事実から派生する.たしかに記号的な心から生まれた過去のさまざまな悪,今後のさらなる悪はぼくたちを苛むが,記号的な心は,何が良いか,正しいかを判断する能力も与えてくれた.人間の悪からの救済は,人間の善によるものでしかない.人間を救うことができるのは人間の心だけなのである.望みは,人間の心は変えられるということだ.人間の心を鍛練して良い記号的な心をつくりましょう.

Michael R. Dietrich によるコメント:記号的思考についてのなぜなぜ話?

  • 進化生物学の観点から Tse の主張とその正当化について検証する
  • 1970 年代の社会生物学の論争において,Gould & Lewontin は単に進化生物学の原理に整合的なだけの進化的説明をなぜなぜ話 just-so stories と呼んだ.この問題はこうしたお話は妥当に思われるが,きわめて想像的で,正当化された進化的説明であることは極めて稀であることだ.もし進化生物学が終わりのない適応主義的な仮説のプロセスに過ぎないのならば,反証不可能に陥る.価値がないと言っているのではない.Tooby & Cosmides によれば,なぜなぜ話の価値は,説明にあるのではなく,予測にあるのだ.「こういた理論なしでは探そうと思うこともなかったような新しいデザイン性質やメカニズムについての豊かで精緻な先行予測を産み出す」.この歴史を胸に Tse の理論を検証してみよう.
  • 遺伝的変異や神経結合に関しては,Tse の理論はなぜなぜ話だ.実りある妄想と言えるか?
  • モジュール間結合についての解剖学的証拠が示されておらず,神経構造と遺伝的基盤の関係もわからない.進化的理論を認めたとしても,道徳性が選択されたということは意味しない.おはなしのもっともらしさと統合力は,おはなしを正当化しません.
  • FOXP2遺伝子の知見のようなボトム・アップな研究がもっとないと説明に値しません.

人間なんて自動機械にすぎなくなくない? あるいは存在の耐えられない自動性について

Are We Free?: Psychology and Free Will

Are We Free?: Psychology and Free Will

Baer, J., Kaufman, J., & Baumeister, R., eds. (2008) Are We Free?: Psychology and Free Will (Oxford University Press)
2 Nichols, S. "Psychology and The Free will debate" (えめばら園)
4 Dweck, C. & Molden, D. "Self-Theories: The Construction of Free Will" (えめばら園)
8 Kihlstrom, J. F. "The Automaticity Juggernaut -- or, Are We Automatons After All?"  ←いまここ
10 Roediger III, H.R. , Goode M.K., and Zaromb, F.M. "Free Will and the Control of Action" (noscience!)
12 Dennett, D. C. "Some observation on the Psychology of Thinking About Free Will" (スウィングしなけりゃ脳がない!;抄訳)
13 Howard, G. S. "Whose Will, How Free?" (えめばら園)

  • 科学的心理学のパイオニアである William James は,La Mettrie (1748/1749) による「自動機械論」(「人間は意識的な自動機械であるが,どのみち自動機械であり,それゆえ,デカルトの人間と機械との区別は消去される」)について考察し,「習慣は人生の多くの部分を占める」(p.109) のは確かであるが,「ア・プリオリな,そして疑似形而上学的な根拠から,自動機械理論を我々に当てはめるように迫るのは(そして実際迫られているのだが)心理学の現状からすれば,認めがたく不適切である」(p.141) と結論づけた.
  • James は自動機械論に懐疑的であったが,自動機械論の正しさを証明するかもしれない科学的証拠にはオープンだった.一部の心理学者によれば,ついにその時が来た.1999年,American Psychologist は “Behavior – It’s involuntary” と題した特集号を出版し,自動性の概念を「動機や自由意志,行動の制御を理解する上でのブレークスルー」であるとした.日常生活において我々は実際は自動操縦状態なのだという.
  • かつては,心理学者は無意識や自動的な過程は例外的であると考えていたが,現在では,自動的な過程ことそが規範的原則であり,意識的な制御こそが例外であると理解している.このような状況は,どのようにして,何故,生じたのだろうか?

自動性のルーツ

  • 自動性の起源は特にストループ効果を中心とした注意の研究 (Kahneman, 1973; MacLeod, 1991) に起源を持つ.読字や視覚探索の研究も自動性の概念の洗練に貢献した (LaBerge & Samuels, 1974; Posner & Snyder, 1975…).1970 年代の終わりには,認知心理学者は,自動的な情報処理と制御された情報処理の違いについて合意を持っていた.
  • 自動的な処理は以下の特徴を核として持つ
    1. 不可避の誘起 (inevitable evocation):自動的な過程は,主体の意識的な意図や,注意の配分,心構えに関わらず,特定の環境刺激が現れることによって,不可避に生じる.
    2. 修正できない完遂 (incorrigible completion):自動的な過程は一度誘起されると,主体が制御しようとしても,弾道のように完遂されてしまう.
    3. 効率的な実行 (Efficient execution):自動的な過程は,注意のリソースを消費せず,努力を必要としない
    4. 並列的な処理 (Parallel processing):自動的な過程は,他の実行中の過程に干渉せず,それらから干渉されることもない.例外は,他の処理と入力あるいは出力のチャンネルについて競合する場合(ストループ効果)
  • Hasher & Zacks (1979) は,自動的な過程が意図から独立なだけではなく,情動状態,散漫,ストレスといった,いかなる個人的あるいは環境的条件からも独立であると主張し,自動性の概念を拡張した.また,自動的な課題のパフォーマンスは,覚醒度や知性のような個人差,あるいは,人種,民族,社会経済状況といったグループ差からも独立していると主張された.
  • 自動性についての現代の概念は,反射や本能といった解発刺激に対する不随意な反応に関わる生物学的・行動学的な起源を持っている.また,古典的・道具的条件付けの分析にも起源がある.したがって,生得的に特定された自動的な過程も存在する一方で,習慣による自動化も存在するとされる.こうした自動的な過程は注意のリソースを消費しないため,意識的にアクセス可能な痕跡を記憶に残さない.こうした自動性の概念の受容によって,無意識的な心的生への関心が復活した (Kihlstrom, 1987; Hassin, Uleman & Bargh, 2005).すくなくとも理論的には,語の厳密な意義からして,自動的過程は無意識なものである.意識することはできないし,意識的に制御することもできない.

認知心理学から社会心理学へー更に

  • 自動性の概念は,認知理論における重要な進展であり,注意の初期選択理論と後期選択理論の論争を解決した (Pashler, 1998).初期選択理論によれば,前注意的で,前意識的な処理は刺激の物理的性質の分析に限定されている.意味の分析には,注意を意識的に配分することが必要とされるのである.一方,後期選択理論によれば,意味の分析も前注意的に行われる.自動性理論は,処理が自動化されている限りにおいて,複雑で意味的な分析が前注意的に,したがって前意識的に可能であると考える.自動性理論は,発展に従い,注意理論とは分離し,記憶の観点から再解釈された (J.R. Anderson, 1992; G.D. Logan, 1998).さらに,認知心理学者は過程分離法 (process-dissociation procedure: L.L. Jacoby, 1991) のような実験パラダイムを発展させ,自動的な過程と制御された過程がどれだけ課題成績に貢献しているかを推定することが可能となった.
  • 認知心理学での受容に伴い,自動性の概念は性格心理学や社会心理学の領域にまで広がった.たとえば,Nisbet and Wilson (1977) は我々が心の内容(信念や態度など)には意識的に気づくことができるが,その内容を生み出すところの心の過程には気づくことができないと述べたとき,自動性が念頭にあった.
  • Taylor and Fiske (1978) は,ひとびとは「認知的倹約家」であり,制約された認知容量の元で作動しており,理由があり思慮に富んだ価値判断よりも「頭に浮かんだ」判断に飛びつきやすいと論じている.Smith and Miller (1978) は Nisbett and Wilson (1977) へのコメンタリ―の中で,自動性の概念に初めて明示的に訴えた最初の論者である.彼らによれば,内観アクセスの限界は,顕著な社会刺激が自動的に処理され反応されるからであるという.
  • これ以降,多くの社会心理学者が明示的に自動性の概念に訴えて,態度や社会的判断についての実験をデザインし,解釈し始めた (Higgins and King, 1981; Bargh, 1982; Bargh & Pietromonaco, 1982).
  • 1980年代の終わりには,性格心理学,社会心理学の幅広い分野で自動性の概念が適用されるようになった.Uleman and Bargh (1989) による記念的な編著は自動的で意図されない思考の役割についての章を設けている.

勢いづいた自動性の破壊勢力

  • 1989年以後,自動性の概念は性格・社会心理学において著しく繁栄した (Bargh, 1994).1975年以前では,データベース PsycINFO で,自動的 automatic あるいは自動性 automaticity の語がアブストラクトに出現する論文は 29 本だけだったが,1980 年までに 6 本が追加され,1980 年代には 40 本,1990年題には 115 本,そして,2007 年までに240本が追加された.
  • 1997 年には Journal of Experimental Social Psychology,2001 年にはJournal of Personality and Social Psychology が自動的な過程についての特集を組み,その間に Greenwald, Banaji らが自動的な連合に基づいて隠れた偏見を明らかにする Implicit Association Test を開発した (Greenwald, McGhee & Schwartz, 1998; Nosek, Greenwald & Banaji, 2005).
  • もちろん,自動性の概念は認知心理学でも人気があったが,認知心理学者は,自動的な過程と制御された過程の区別を維持し,それらが課題成績に貢献する程度を検証するために多くの努力を費やした (L.L. Jacoby, 1991).当初は,社会心理学者もこれに従い,態度,説得などの二重過程理論が生まれたが (Chaiken & Thorpe, 1999),こうしたバランスのとれた観点は,より単純な自動性への関心にとってかわられた.たとえば,Gilbert (1989, p.189) は,「他者について軽く考えること」の利益を論じた.Bargh (2000, p.938) は,意図的に制御された行動も究極的には自動的であり,「自動的に作動する過程」によって「制御され,決定づけられている」と論じた.一部の社会心理学者は,社会的相互作用における自動的な過程と制御された過程の異なる役割についてのバランスのとれた観点をとるよりも,むしろ社会的な思考や行為はほとんど自動的な過程に尽きるという見方を取るようになった.
  • この発展の過程は,社会心理学における自動性の推進者である Bargh の仕事に見ることができる.1984 年における「自動性の限界」という論文では,Langer における社会的相互作用が無思慮に進行するという立場に批判的であった.しかし,その 5 年後には,彼の立場は大きくシフトし,自動的な過程を制御された過程に優越させる見方を取っている (Bargh and Uleman, 1989).その一年後には,さらに歩みを進め,自動性は情報処理システム全体にいきわたっており,自動的に誘起された心的表象が自動的に対応する動機を生成し,それが自動的に対応する行動を生成するという見方を提唱している (Bargh, 1990; Bergh & Gollwitzer, 1994).
  • Bargh は「存在の耐えられない自動性」を主張し,「多くのひとびとの日常的生活は,意識的な意図や熟慮された選択によるものではなく,環境の特性により発動される心的過程によって決定されており,意識的な気づきや導きの外側で作動しているのだ」(Bargh & Chartrand, 1999, p.462)
  • Bargh の最も新しい彼の立場を表明した論文は「社会的生活の自動性」(Bargh & Williams, 2006) と題されており,より穏当で適切であろう「社会的生活における自動性」ではない.我々が行動を制御しているという印象は,全体のおよそ 0.56% の稀な機会が強く記憶されることによる幻想であるという.

Social Psychology and the Unconscious: The Automaticity of Higher Mental Processes (Frontiers of Social Psychology)

Social Psychology and the Unconscious: The Automaticity of Higher Mental Processes (Frontiers of Social Psychology)

無意識と社会心理学―高次心理過程の自動性

無意識と社会心理学―高次心理過程の自動性

破壊勢力に飛び乗って

  • 自動的な過程が経験・思考・行為を決定づけていると考え,熟慮された意識的な活動を周縁へと追いやろうとしているのは Bargh だけではない.Wegner and Schneider (1989) は自動的な過程と制御された過程とにおける「心的機械の中の幽霊の戦い」を描いているが,前者が優勢であることを示唆している.「歯磨きをしたいとか,飛び跳ねたりしたいときは,そうできる.けれども,心を制御したいときには,まったくうまく行かないことに気付くだろう.心についてのあらゆることのチャンピオンであるウィリアム・ジェームズでさえ,意識に注目することで心理学が奇行の飛び跳ねるグラウンドになってしまう可能性があることを警告している」(p. 288)
  • 無意識の,自動的な過程に熱中するあまり,こうした著者らは James を誤って引用している.James が無意識的な思考についての批判を 10 点挙げたあとで,「無意識的な心的状態と意識的な心的状態の区別は,心理学において自らの好むことを信じ,科学になりつつあるものを奇行の飛び跳ねるグラウンドへと変えてしまう効果的な手段である」(1890/1980, p.163) と書いたことを考えると,「奇行の飛び跳ねるグラウンド」になってしまうのは「無意識」であろう
  • にも関わらず,Wegner は The Illusion of Conscious Will と題した本を出版した.
    • 「行動の真なる因果的メカニズムは意識のなかには存在しない.むしろ,因果のエンジンは,我々に姿を見せることなく作動しており,おそらく心の無意識なメカニズムによるのだろう.日常的な行動において自動的な過程が根本的な役割を担っていることを示唆している近年の研究 (Bargh, 1997) の多くは,こうした角度で理解できる.人間の行為の真の原因が無意識であるならば,行動が,自動性の実験で見られるように,しばしば主体がその原因に意識的に気づくことなく生じることは驚くべきことではない」(2002, p. 97)
  • Wegner の本では,「実際の因果パス」が「思考の無意識な原因」と「思考」との間に引かれ,また,「行為の無意識な原因」と「行為」との間に引かれている.そして,「思考」と「行為」との間には「見かけ上の因果パス」が引かれるのみである.
  • 同様に,T.D. Wilson も,外界の実際の状態に対してより調整された無意識的な過程とインターフェイスを持つがゆえに,意識的な処理は非適応的であると示唆している.
    • フロイトの無意識への観点は,あまりに限定されている.彼は意識は氷山の一角に過ぎないといったが,意識は氷山の一角の上に乗った雪玉の程度のものに過ぎない.心は,高次の洗練された思考を無意識へと追いやることでより効果的に作動するのだ…」(2002, pp. 6-7)

The Illusion of Conscious Will (Bradford Books)

The Illusion of Conscious Will (Bradford Books)

自分を知り、自分を変える―適応的無意識の心理学

自分を知り、自分を変える―適応的無意識の心理学

  • 自動性の破壊力はアカデミックな心理学を超えて,影響力を及ぼした.Sandla Blakeslee (New York Times の科学欄担当) による記事 (2002),Gilbert や Wilson の仕事に触れた Malcom Gladwell (New Yorker のライター)による著書 Blink など.
    • 「結論へとジャンプしやすい僕たちの脳の一部は,適応的無意識と呼ばれ,この種の意思決定の研究は,心理学における最も重要な新分野である.適応的無意識は,フロイトの無意識と混同してはならない.フロイトの無意識は,意識的な思考にのぼらせるにはあまりに不穏な欲望や記憶,ファンタジーに満ちた,ほの暗く怪しい場所である.適応的無意識はそうではなく,人間として機能するために必要な多くのデータを速く静かに処理する大きなコンピューターのようなものである」(Gladwell, 2005, p.11)
  • Gladwell の著書は,New York Times のノンフィクションのベストセラー・ランキングに18か月載り続け,自動性概念の人気を実証した.これに対する批判 (LeGault (2006) Think: Why Critical Decisions Can’t Be Made in the Blink of Eye) やパロディ(Tall (2006) Blank: The Power of Not Actually Thinking at All)なども出版された.

Blink: The Power of Thinking Without Thinking

Blink: The Power of Thinking Without Thinking

第1感 「最初の2秒」の「なんとなく」が正しい

第1感 「最初の2秒」の「なんとなく」が正しい

3.5番目の非連続性?

  • 実験的証拠は,社会的認知や社会的行動において,ある条件では,自動的な過程が何らかの役割を果たしていることを示している.しかし,こうした制限された結論を超えて,あらゆる人間の経験・思考・行為にまで自動性の教義を拡張すべきなのか?つまり,意識的な気づきはほとんど後知恵にすぎず,意識的な制御は幻想であると.こうした観点によれば,人間は,特殊なクラスのゾンビであり,La Mettrieが論じたように,意識的ではあるが,そうした意識は思考や行為にほとんど機能的な役割を果たしていないようなオートマトンであると.意識の目的は,何故ものごとはそのように生じたのか,何故我々はそのように行為したのかについての個人的な理論を作ることであり,実際に生じていることにはほとんど無関係であるということになる.Bargh はこの点を簡潔に論じている「スキナーが正しく指摘したように,心理学的現象の状況的原因について知れば知るほど,そうした現象を説明するために内的で意識的な媒介過程を仮定する必要がなくなる」(1997a, p.1)
  • 科学の進歩は,その本性からして,世界がどのように動いているかについての大衆的な誤解を修正し,驚くべき,ときに不快な真理をつきつけることがある.フロイトは自らをコペルニクスに連なるものとして認識していた.地球が宇宙の中心にないことを明らかにしたコペルニクス(一番目の非連続性の消去),人間が他の生物同様に自然の産物であることを明らかにしたダーウィン(二番目の非連続性の消去)に続き,フロイトの発見(と彼が主張するもの)は意識的な経験・思考・行為が無意識の原初的な原動力によって決定づけられているとするものだった.
  • Bargh は明らかに彼自身をこうした科学の進展に連なるものとして位置づけ,フロイトの非合理な「イドからのモンスター」を,必ずしも非合理ではないが自動操縦で作動し意識的な熟慮には影響されない人間観で置き換えた.彼によれば,「我々は思うほどに意識的でも自由でもないのである」(Bargh, 1997a, p.52).それゆえ,我々は「存在の耐えられない自動性」と共に生きていかなければならないのだ (Bargh & Chartrand, 1999).
  • Bargh と同様に,Wegner & Smart (1997) は,フロイトの非合理性を自動性へと置き換えて三番目の非連続性を消去した.人間と機械との間の,四番目の非連続性も人工知能の発展によって消滅すると考えるものもいる (Mazlish, 1993; Kurzweil, 1999).
  • しかし,自動性の教義は,正しくない,あるいは,すくなくとも,確固たる科学的証拠に基づいていない.三番目の非連続性がまだ消去される見込みはないと考える理由は三つある.
  • 最初の理由は,パラドキシカルなことに,自動性概念の理論的基盤が解明されつつあるからである (G.D. Logan, 1997; Moors & DeHouwer, 2006; Pashler, 1998).特に,自動性概念が起源とする注意のリソース理論が疑問に付されつつある.たとえば,単一の注意のリソースは存在しないようである.また,課題の過度の訓練を行っても,パフォーマンスに努力が必要なくなることはないということも分かってきた.注意の容量が制約されていないこと,あるいは,すくなくとも,その限界は非常に広いということも分かってきた.先述したように,注意ではなく,記憶に基づいた別の自動性の理論も現れており,そうした理論は今でも正当性を失っていないが,自動的な過程が持つと目されている性質には不利に働く.たとえば,J.R. Anderson (1992) の手続き化の観点では,特定の目的状態の文脈において適切な手がかりが提示された場合にのみ,自動的な過程は作動する.また,Logan (2002) のインスタンスに基づく理論では,自動的な過程は,被験者が適切な心的状態にあるときにのみ作動する.さらに,自動的な過程は,必ずしも終着点まで邪魔されずに進行するわけではない.
  • こうした状況に対するひとつの反応は,自動的過程と制御された過程との差異は量的なものであるとするもの (Bargh, 1989, 1994).これは,ほとんど正しいが,どの過程が自動的かを知ることが難しくなってしまう.たとえば,ある過程が意図せず作動したが,それでも注意の容量を消費しているような場合,どうなるのか? そして何らかの課題が多かれ少なかれ自動的に実行されると譲歩することで,「社会的生の自動性」というメッセージ (Bargh & Williams, 2006) のもつインパクトは切り崩される.
  • さらに,二つ目の理由として,自動性の連続的仮説に伴って,心理学実験における概念の操作化にもズレが出てきた.初期の実験では,両耳分離聴 (Bargh, 1982) や周辺視野提示 (Bargh & Pietromonaco, 1982) を行い,自動性の操作的定義に厳密に従う努力が見られたが,近年の研究では,こうした努力が放棄されている.たとえば,被験者に明瞭に語を提示し,それを発音するように求めたり (Bargh, Chaiken, Raymond & Hymes, 1996),それを用いて文を組み立てるように求めたりする (Bargh, Chen & Burrows, 1996).こうした課題は,明らかに意識的な処理を伴い,認知心理学における当初の自動性の概念からは逸脱している.
  • 実際,社会心理学においては,自動性の概念は,被験者が実験者に課された主課題に対して偶然的な incidental 処理(シャドウィング,視覚刺激の探索,語の発音,文の組み立て)が関わる場合に用いられるようである.しかし,偶然的に処理されるからといって,必ずしも,非意図的に処理されるわけでも,さらには自動的に処理されるわけでもない.多くの状況では,処理容量は残っており,それを用いて,かなり熟慮して,他の課題に取り組むのである.たとえば,実験のカヴァー・ストーリーを批判的に分析したり,実験者の真の目的を推測したり (Orne, 1962).
  • 三つ目の理由として,もっとも重要なことに,自動性に関する社会心理学の文献は,自動的な過程と制御された過程のそれぞれの強さを実際に比較することがほとんどない.認知心理学では,それぞれの過程を直接比較する試みに関心が払われていた.たとえば,Jacoby et al. (1997) は,PDPを用いて,再認の成功が,若い被験者では制御された想起に依存するが,年配の被験者では自動的な親近性に依存することを明らかにしている.PDP にも批判はあるが (Curran & Hintzman, 1995),ポイントは,認知心理学者は,それぞれの過程の双方が課題に貢献していることを前提とし,それらを解きほぐそうとしているということ.社会心理学においてポピュラーな見方では,制御された過程はほとんど関係ないというもの.
  • 実際,PDP のような方法を用いて,社会心理学的な課題におけるそれぞれの過程の強さを比較する研究はほとんど存在しない.PDP を用いた数少ない社会心理学研究である Uleman et al. (2005) によれば,被験者に,ターゲットとなる個人の写真と行動の記述とを見せ,直後,あるいは20分後,2日後に,ターゲットの性格特性について質問を行った.「包含」条件では,行動の記述はターゲットの特性に関係があり,これを考慮するように被験者は伝えられた.「排除」条件では,行動の記述はターゲットの特性とは関係がなく,それを無視するように被験者は伝えられた.この「反対法」method of opposition によって,自動的な過程と制御された過程とを分離し,それぞれの貢献を定量化することが可能になる.その結果,直後の特性判定では,制御された過程が自動的な過程を上回り,遅延後の特性判定では,制御された過程と自動的な過程は同等の貢献を示した.遅延が制御された過程のインパクトを減少させることは確かであるが,自動的な過程がより重要であると主張するにはほど遠い結果である.ましてや,制御された意識的な過程が後知恵であるとか,人間の経験・思考・意識に関係ないだとかは全く言えない.
  • 同様に Payne et al. (2005) は,PDP の変種を用いて,「武器同定効果」(不明瞭な物体は,白人よりも黒人に保持されている場合に,より武器として認識されやすくなる)に対する自動的な過程と制御された過程との関係を明らかにした.その結果,効果は制御された過程によって大部分決定づけられており,自動的な過程は,制御された過程が働かないときに判断をバイアスづけるという副次的な役割しか果たしていないことが分かった.この研究は,ステレオタイプが自動的に活性化され,それが制御された過程によって克服されなければならないとする,広く受け入れられているステレオタイプの自動性の二段階説を棄却するものである (see also Payne & Stewart, 2007).いずれにせよ,刺激提示から 500 ms 以内に反応を迫られているような状況で,自動的な過程が重要な役割を果たしていたとしても驚くには値しないだろう.

自動性の魅惑

  • 自動的な過程が社会的相互作用において役割を果たしていることは確かだが,自動的な過程が人間の経験のすべてを決定づけていると主張することには経験的証拠がない.
  • それでは,なぜ,一部の社会心理学者は,経験的に正当化されない,論理的に必然的でないステップをふむのか? おそらく,そのステップが経験的データに動機づけられていないならば,James が一世紀以上前に批判したような,ア・プリオリな,あるいは,疑似形而上学的な動機があるのではないか?
  • おそらく,自動性への熱狂は,社会心理学における「認知革命」に対する反動を反映しているのではないか.「認知革命」においては,社会的相互作用は,意識的で熟慮された合理的な思考によって媒介されるとする見方が暗黙にあり,たとえば,それはバランス理論 (Heider, 1946, 1958),認知的一貫性理論 (Festinger, 1957; see also Abelson et al., 1968),認知的代数学 (cognitive algebra; N.H. Anderson, 1974),初期の帰属理論 (Kelley, 1967) に反映されている.また,社会心理学における自動性への関心が,認知的な分析とは独立に環境刺激から自動的に情動状態が生成される (Zajonc, 1980, 1984) とする「情動反革命」と同時期に始まったのも偶然ではない.実際,Zajonc (1999) は自動性と情動とを明示的に結び付けている.
  • 社会心理学の生物学化も意識的な制御の役割を減じるのに貢献したかもしれない.社会的相互作用の特定のパターンの理由が利己的遺伝子にあるならば,意識的な,熟慮的な思考の余地はなくなる.また,社会的相互作用が他の種と共有された本能によるものであっても同様である (Barkow, Cosmides & Tooby, 1992; Buss, 1999).最後に,社会神経科学 (Cacioppo, Berntson, McClintock, 2000) は,意識的な思考や常識的な「素朴心理学」を行動の説明から締め出してしまうような還元論的な方向性を持っている.
  • 情動心理学と認知心理学が並行すること,社会相互作用の生物学的基盤の探求は,社会心理学におけるポジティヴな発展であるが,現在の自動性への関心には暗い側面がある.社会心理学の主流は,判断のエラー,規範の違反,社会的不正行動に集中している (Krueger & Funder, 2004).科学が反直観的な発見から学ぶことがあるのは確かであるが,ネガティヴなものの強調は,「ひとはばかである」学派へと堕しかねない (Kihlstrom, 2004a).つまり,我々の日常生活においては,ほとんどしっかりと考えることなく,バイアスやヒューリスティックといった判断のエラーに導く様なものに頼っているというものだ (e.g. Nisbett & Ross, 1980; Ross, 1977; see also Gilovich, 1991).こうした観点においては,非合理性は,判断におけるバイアスやヒューリスティクスの証拠だけではなく(これらは単なる限界合理性 (Simon, 1957) の証拠かもしれないから),無意識で自動的な過程の証拠によって示される.我々は,ものごとをあまり考えていないだけではなく,周囲でおこっていることや自らがしていることに注意をあまり払っていないのである (Gilbert & Gill, 2000).
  • また,我々はなぜそのように行動しているかも知ることがない (Nisbett & Wilson, 1997; T.D. Wilson & Stone, 1985; W.R. Wilson, 1979).思考や行動は,環境刺激に反応して,単に自動的に生じるだけであり,行為や思考を制御しているという信念は幻想であり,意識的な制御の試みはむしろ逆効果であり (D.M. Wegner, 1989),自動的な過程に頼ったほうがうまくいくのである (T.D. Wilson, 2002)
  • もうひとつの暗い側面は,長年にわたる,しかし,語られることのない,社会心理学と行動主義との同盟である (Zimbardo, 1999).Watson や Skinner が,行動が環境刺激の制御下にあると考えたように,社会心理学は歴史的に,個人の経験・思考・行為が社会的状況の影響下にあると考えてきた.Floyd Allport (1924) の社会心理学の先駆的なテキストは明示的に行動主義的な立場を取り入れ,その 30 年後 Gordon Allport (1954) によって行動主義の強調は成文化された.彼の定義によれば,社会心理学とは「個人の思考や感情,行動が,実際の/想像された/含意された,他者の存在によってどう影響を受けるか」を研究するものである.
  • 行動主義の強調は,社会心理学の “4A” (aggression, altruism, attitude change, attraction) を初め,教科書のあらゆるページに見ることができる.状況主義の教義は社会心理学に深く刻まれており,Ross and Nisbett (1991) は,「状況主義の原理」を「社会心理学の寄って立つ三本脚」のひとつとして挙げている.1960 年代に現れた認知的観点は,知覚された状況の重要性を強調したが,実際には,内的な認知プロセスについて言及する研究は少なかった.
  • Berkowitz and Devine (1995) が指摘するように,すべての古典的研究は,環境刺激による情動,思考,行為の自動的誘起の観点から再解釈できる.Wegner and Bargh (1998) も同意し,古典的な研究で探求された行動への状況要因の影響は (a) 意図せず (b) 意識せず (c) 効率的で (d) 制御しづらいという特徴(「自動性の4騎手」(Bargh, 1994) )を持つと述べている
  • これらの古典的研究は,もちろん,認知心理学において自動性の概念が生じる前におこなわれたものであるため,これらの効果が本当に,意図せず,意識せず,効率的で,制御しづらいものであるかはわからない.
  • Bargh 自身が,はっきりと,行動主義,状況主義,自動性を自由意志の問題と結び付けている
    • 思考や感情,行為の状況的原因を発見することが社会心理学の範囲なのだとすれば,心理学的現象の理解が進展すれば,自由意志や意識的な選択がそれらの説明に果たす役割は減退するだろうという予想からは逃げられない.換言すれば,社会心理学が思考や情動,行為の状況的決定要因に焦点を当てるがゆえに,社会心理学的現象が本性からして自動的であるとされるのは不可避なのである (1997a, p1)
  • 自動性による破壊勢力は,刺激と反応の間を認知が媒介していることを認めるため,厳密には刺激反応行動主義の復活ではない.ラディカルな状況主義を思い起こさせるが,認知主義との表面上の同盟を維持することができる.もし,対人関係行動の基礎をなす認知過程が環境刺激によって自動的に引き起こされるならば,行動は環境によって決定づけられている.もし,社会行動が完全に自動的ではないとしても,少なくともそれほど多くの思考が社会行動に関与するわけではない.故スーザン・ソンタグ (“fascism with a human face”) に因んで,これを認知的な顔をした行動主義と呼ぶことができる.

われわれは結局自動機械なのか?

  • 認知革命によって,意識研究は再興した (Hilgard, 1980) が,それでも,意識の話題は一部の心理学者を神経質にさせる.Flanagan (1992) はこれを conscious shyness と呼んだ.その原因は,実証主義的な留保,行動主義の残余などが様々あるが,意識非本質主義 conscious inessentialism(「意識気づきや意識的制御は認知の多くの側面において不必要である」)も大きな要因である.これが,意識は行動に因果的役割を果たさないという,随伴主義的な懐疑を生む.こうした見方では,我々は意識的なゾンビであり,結局はゾンビなのである.
  • 自動性の概念によって,我々には意識があることや,その神経相関の探求を認めることができる一方で,意識が行動を引き起こす上で何の役割も持っていないことも認めることができる.D.M. Wegner (2002) は,意識的な意図が幻覚であり,意識的な意図は行為のプレヴューであり,原因ではないということを力強く論じている.彼が言うには「これこそが人間の心理の説明における進歩が進むべき方向である.主体としての自己は,行為を引き起こす実在ではありえず,ヴァーチャルな存在であり,見かけ上の心的因果者なのだ」(2005, p.23).この引用は,自動性の破壊勢力が,経験的証拠ではなく,前理論的なイデオロギー的コミットメントに突き動かされていることを示している.こうしたコミットメントは,状況主義や行動主義に対するものだけではなく,科学がどのようなものであるか,どのような説明を科学理論が許容できるかといった特定の観点に対するものである.
  • 実際,随伴現象説は心理学,ひいては社会科学における長年の問題,つまり,自由意志と決定論の問題につながっている (Rogers & Skinner, 1956).ある理論家によれば,意識が行動において因果的役割を担っているという考えは,科学における根本的な想定に違反している.その想定とは,すべてのイベントは物理的な原因を持っており,人間的な主体は科学的な説明において位置を持たないというものだ.決定論の前提への固執か,意識を真剣に考えるかという選択を迫られた科学者は,しばしば前者を選び,思考と行為は自動的であり,意識は随伴的で因果的役割は持たないと考える.こうして Burgh and Ferguson (2000) は自動性は,行動が環境刺激によってどう決定づけられているかを示すことで,自由意志の問題を解き,行動主義が失敗したところで成功を収めたと書いている.
    • 伝統的には選択と自由意志の本質的な例とされていた高次の心的過程(目標追求,判断,対人行動)は近年,意識的な選択や導きなしに生じることが分かってきた.したがって,複雑な高次の人間行動や心的過程が決定論的であることを示すことに 20世紀なかばの行動主義が失敗したのは,そうした過程が決定づけられていないからではなく,行動主義が,環境と高次のプロセスとを媒介するのに必要とされる対人間の心理学的な説明メカニズムを否定したからである.(p. 926)
  • Wegner (2002) 同様,Bargh and Ferguson (2000) によれば,自動性は心理学が科学的地位を得るうえでも重要だという.自動性は無意識的な心的生を脱神秘化するだけではなく,意図をバイパスすることを可能にし (Bargh, 2005),古典物理学ピンボール決定論を採用することを可能にする.彼らは,自由意志と決定論の葛藤に面し,決定論を取り,自動性はそのための手段なのだ.同時に,これは誤った選択かもしれない.社会的な行動における自動的な過程の役割については,制御よりも自動性を選択させるような,科学的な証拠が存在しないのだ.
  • Searle (1992, 2000a, 2000b, 2001a, 2001b) が論じるように,自由意志の経験と決定論への科学的コミットメントとのように,どちらも説得力のある二つの信念の間での選択をせまられる場合,選択自体がきちんと枠づけられていないことが多い.もしかすると,自由意志概念は,素朴心理学の感傷的要素にすぎず,放棄するべきなのかもしれない.あるいは,正しいスタンスは,意識的な意志の経験を正当なものと受容し,ニューロンシナプス神経伝達物質の物質的世界の因果的図式の中に自由意志を位置づけて説明しようとすることかもしれない.この選択は,我々がこれからなすべきもので,価値ある心の科学を持てるかどうかを決定づけるものとなるだろう.

道徳の「内容」は生得的{だ/か}

Moral Psychology: The Evolution of Morality: Adaptations and Innateness (A Bradford Book)

Moral Psychology: The Evolution of Morality: Adaptations and Innateness (A Bradford Book)

Ch.2. Cosmides. L. and Tooby, J. "Can a General Deontic Logic Capture the Facts of Human Moral Reasoning?"(えめばら園)
Ch.6. Sripada, C.S. "Nativism and Moral Psychology: Three Models of the Innate Structure that Shapes the Contents of Moral Norms"
 6.1 Harman, G. "Using a Linguistic Analogy to Study Morality" ←いまここ
 6.2. Mikhail, J. "The Poverty of the Moral Stimulus" ←いまここ
 6.3. Sripada, C.S. "Reply to Harman and Mikhail" ←いまここ
Ch.7. Prinz, J. "Is Morality Innate?"(えめばら園)

6.1 言語アナロジーを道徳性の研究に用いること
Gilbert Herman

Sripadaは道徳性の生得性について (1) 特定の原理が生得的であるとするSI (simple innateness) モデル (2) PP (principles and parameter: 原理とパラメータ) モデル と (3) 生得的なバイアスが道徳性の内容を決定することなくひとびとの獲得する独特性に影響を与えるとする IB (innate bias) モデルとを区別し,(1), (2) を退けて (3) を提唱した.ここではIBモデルについて議論することなく,SripadaによるSIモデルとPPモデルを棄却する議論が不完全であり,3つのどのモデルも可能性があることを論じる

6.1.1 単純な生得性
Sripadaの当初の定式化では,SI モデルは「いくつかの道徳的規範が生得的である」というものだったが,すぐに「多くの特定の規則が生得的であり,その内容は非規範的な語彙で定式化される」というものに再定式化された.

コメント
1. 多くの生得的な規範があるという主張を否定することは,いくつかの生得的な規範があるということと整合的である
2. どちらの主張にせよ,生得的な規範が非規範的な語彙で内容が定式化されなければならないという解釈には同意できない.規範が「正,誤,善,悪,正義,不正義」などについてのものであるならば,その内容は部分的には規範的な語で定式化されなければならない

    • もし非規範的な語で「正,誤,善,悪,正義,不正義」のようなものを同定することが可能でなければならないとするならば,規範に言及する規範(例「間違っていることをひとに教唆することは間違っている」のような原理)は締め出されてしまう
    • もしこうした原理を締め出すならば,二重効果原理(「他者により大きな善をもたらすための手段(の一部)として(それに同意していない)誰かに害をもたらすことは,より大きな善をもたらすために行った行為の副作用としての害を引き起こすことよりも,悪い」)のようなものも排除されてしまい,SI モデルそのものが問題の多いものになってしまう.
    • 言語において普遍的な原理があるというとき,言語学者はこうした原理が言語学の概念を用いることなく定式化されるとは想定していない.道徳においても普遍的な原理に規範的な語彙が含まれていても良いのでは

3. Sripada は「多かれ少なかれすべての普遍的な規範として想定されるものは,多様性を帯びている」と示唆している.しかし,少なくともいくつかの道徳的規範は,他の条件が等しいならばデフォルトで採用される規範であり,社会的文脈はどのような場合に「他の条件が等しい」とされるかについて関連すると考えることは可能.異なった道徳体系は異なるデフォルト規範を持つという主張と,異なった道徳体系は同一のデフォルト規範を持ち,社会的文脈よって異なる相互作用を示すという主張とを区別することは困難.
4. ある種の規範は,ひとびとに明示的に知られることなく,道徳的判断のなかに非明示的に表れることがある.二重効果原理の非明示的な受容が広範なものであり,一般のひとびとがその原理について明示的な知識がなく,明示的な教示によって伝達されないのだとしたら,この原理が生得的で普遍的なものであると示唆される

6.1.2 原理とパラメータ
原理とパラメータモデルは普遍的な道徳原理と,道徳体系ごとのばらつきを可能とするパラメータを含む.Sripadaはこのモデルを支持する二つの議論を区別している.ひとつは,刺激の貧困.もうひとつは様々な道徳体系間の共通性と多様性.

6.1.2.1 刺激の貧困
Sripadaは刺激の貧困からの議論を二つの点で退けている.ひとつは,道徳は,学習のターゲットとして言語よりも「はるかに単純である」という点.さらに道徳は言語よりも学習リソースにおいて「比較できないほど豊か」であるという点.

コメント
1. 刺激の貧困による議論は SI モデルに対しても適用することができるかもしれない
2. 道徳がどの程度単純なものかは明らかではない.(言語と比して)道徳の構造に関する説明の端緒にもついていない.
3. 道徳原理の獲得のための学習リソースが十分かどうかは,そうした原理が明示的に他者から教示されているのか,あるいは,単に他者の判断の中に非明示的に含まれているのかによる.複雑怪奇な文法原理と同様に,二重効果原理はひとびとが意識して,子供に教えらえるようなものではない.

    • 功利主義的な道徳においては二重効果原理が受け入れられないため,二重効果原理は普遍的な原理ではないという主張があるかもしれない.しかし,エスペラント語のような人工言語や,普遍文法の原理に違反するピジンの存在が,普遍文法と整合的であるのと同様に,功利主義のような人工的な道徳体系と普遍的な道徳原理は整合的である.普遍道徳は子供が通常の方法で獲得することのできる道徳を特徴づけるものである
    • 普遍文法の原理を満たさないピジンを話す両親のもとに生まれた子供は,ピジンを獲得せずに,普遍文法の原理を満たすクレオールを代わりに獲得する.功利主義の両親のもとに生まれた子供が,二重効果原理のような非功利主義的な原理を含む道徳体系を自然と獲得するかどうかは興味深い
    • 人工的だからといって功利主義に反対しているのではない
    • 他者との相互作用は必要だが,第一言語を獲得するのと同様に,第一道徳を獲得する際に,明示的な教示が必要だとは考えにくい.聴者の両親のもとで育ったろうの子供が普遍文法を満たす手話を「発明」するのと同様に,他者と相互作用する子供が普遍的な道徳的制約を満たす道徳体系を「発明」する可能性は高い

6.1.2.2 危害規範の多様性のパターンを説明する
単一のグループGのメンバーには危害を与えるなという普遍原理,および,Gが様々に設定されうるようなパラメータが提唱されているが,Sripadaによれば,変異のパターンはそれ以上に複雑で,微妙であり,少数の離散的で厳密なパラメータでは説明できず,最良の説明は「テーマ的クラスタリング」であるとする

コメント
1. PPモデルは,単一のグループGを特定する以上の追加的なパラメータや要素を含むことができる
2. Gのメンバーへの危害の禁止はおそらくデフォルトの原理であって,絶対的な禁止ではない.Sripadaが議論している変異は,道徳体系の他の違いによるものかもしれない.特定のケースの評価には,現状よりもより明示的な道徳体系の説明が必要とされる.

    • Dworkin (1993) の議論している例にもPPモデルが関係しているかもしれない.Dworkinによれば,ひとびとは一般的に,胎児に象徴されるような人間の生命の持つ神聖な価値を受け入れているが,胎児がいつその聖なる価値を持ち始めるのか,そしてその他の価値と比べてどのくらいその聖なる価値が高いのかについて意見が分かれるのだという

6.1.3 道徳心理学:言語アナロジー

  • 道徳と言語のアナロジー,あるいは言語学道徳心理学のアナロジーが有望かどうかについて
  • 人間の言語は,その他の動物のコミュニケーションシステムと複雑さにおいて比べるべくもない.同様に,人間の道徳をその他の動物の社会的側面の延長として理解することは,道徳の解明に寄与しない可能性がある
  • 上述のように,ひとの道徳的推論はひとびとが意識していない複雑な原理に感受性がある.このような原理がどのようにして獲得されるかは明らかではないが,ひとつの可能性は,「道徳能力」moral facultyとしてあらかじめ埋め込まれているというものである
  • 社会的慣習の受容によって道徳性(あるいは言語)が決定されるという理論もあるが,これらには様々な難点があり,分析の単位は主体の内的な状態 I-morality (I-language) でなければならないことを示唆する
  • アナロジーにおける困難は,表面的なものではない道徳原理を見出すことが可能かどうかである.表面的な原理が衝突する際に,結果を決定づけている原理はなんだろうか? そうした原理が見出されれば,それが「道徳文法」を構成する
  • Darley and Shultz (1990) による重要なサーヴェイ “Moral rules: Their Content and Acquisition”は多くの哲学的議論に言及している.J.L. Austin (1956) “Plea for Excuses”, Hart and Honore (1959) Causation and the Law, Thomas Aquinas の二重効果原理…
  • 現在,多くの被験者を用いて(fMRIの有無にかかわらず)道徳的判断の経験的研究が行われているが,これは最善のアプローチではないかもしれない.すくなくとも生成文法が発展してきた方法ではない.言語学者が携わってきたのは,何が文法的かについての自らの感覚を説明する明示的な規則を書き下すこと
  • 同様の研究戦略がどの程度道徳研究で可能かは興味深い.もっともストレートな方法は,みずから の道徳的方言 (I-morality) である道徳的感覚を規則や原理の形で明示的に特徴づけること.伝統的な決疑論 casuistry (社会の慣行や教会などの律法に照らして行為の道徳的正邪を決めること)や哲学的説明を精査することから始めるのも良いかもしれない.そのようにして発見された原理が,一般的に表出されるようなものではなく,道徳獲得において利用可能でないようなものならば,その獲得の説明として生得性が説得力をもつかもしれない.しかし,道徳文法の構築に先行してこのような可能性を評価することは難しい

6.2 道徳的刺激の貧困
John Mikhail

Sripadaの道徳的刺激の貧困からの議論 (Mikhail, 2000, 2002a; see also Dwyer, 1999; Harman, 2000a; Mahlmann 1999; Mikhail, Sorrentino & Spelke, 1998; Nichols, 2005) に対する批判は,二つの誤った前提に立っている.ひとつは,道徳的認知の理論における学習ターゲットが「おもちゃを共有すべし」とか「他の児童を打つべからず」というような単純な命令文から成っているという前提.もうひとつは,第一の前提から帰結するもので,子供に利用可能な環境リソースがこうしたルールの獲得を説明するのに十分であるという前提.

6.2.1 道徳獲得のターゲットは単純か?

  • 獲得モデルの出力の複雑性(あるいはその欠如)こそが,刺激がそれに比して貧困かどうかを決定するものなのだから,Sripadaの最初の前提は重大なものである.
  • Sripadaが不当にも無視した「記述的妥当性」descriptive adequacyの問題を考察してみよう.明らかに,この問題は道徳的生得説の問題に論理的に先行するものだ.なぜなら何が学習されるのかについてはっきりとした理解がなければ,生得説をとるかどうか以前に,学習理論を定式化すらできないからだ.これはRawls (1971) が強調したように,難しい問題で,熟慮された道徳的判断のクラスと,それが導出されてくるところの原理のクラスを同定しなければならない.熟慮された判断とは,道徳的能力がゆがみなく反映されるような判断 (Rawls, 1971, p.47) を指す述語であり,心のモジュール性についての前提を必然的に伴う定式化である (Mikhail, 2000).さらに,「導出」はここでは文字通りの意味を持つ.すなわち,演繹的法則論的な説明である,あるいは,被覆法則のもとでの演繹的包摂による説明であるということ (Hempel, 1966).
  • なげかわしいことに,ほとんどの理論家は,道徳的能力をこうした様式で記述しようとはしておらず,分野はいまだにまともな科学として確立されていない.このような方法で,問題にアプローチしようとすれば,すぐに,人間の道徳的直観が複雑で,Sripadaが同定したような初歩的な規範をはるかに超えた概念や原理に基づいていることは明らかになる.こうした知識は明示的な教示,あるいは模倣や社会化などでは説明できないことから,生得性の根拠となる (Dwyer, 1999; Mikhail, 2000)
  • 3-4歳児は,意図や目的といった概念を用いて,同一の結果を持つ二つの行為を区別する (Baird, 2000).また,3-4歳児は「真正の」道徳的違反と社会的慣習の違反とを区別する (Smetana, 1983; Turiel, 1983).4-5歳児は主犯と従犯に対する適切な罰の程度を比例原理を用いて決定する (Finkel, Liss & Moran, 1997).5歳児は過失と賠償に対する複雑な理解を示す (Shultz, Wright & Schleifer, 1986)
  • 「木の根っこを狙っている」という誤った信念のもとでひとを射殺してしまった男と,「殺人は悪くない」という誤った信念のもとでひとを射殺してしまった男,どっちが悪いか? 5-6歳児は法の誤解と事実の誤解の区別を行い,誤事実信念は免罪されうるが,誤道徳信念はそうではないという判断を行う (Chandler, Sokol & Wainryb, 2000).… 8歳児は,トロッコ問題において,5人を救うために1人を犠牲にすることを許容する.しかし,これは,選んだ手段が間違っていないとき,かつ,悪い効果が良い効果に対して不釣り合いでないとき,かつ,他のより良い代替手段がないときに限る.すなわち,二重効果原理に従うときに限る (Mikhail, 2000, 2002a)
  • こうしたケースを説明するためには,我々は,無意識の知識と複雑な心的計算を,子供に帰属させなければならない.トロッコ問題の場合は,目的,手段,副作用,殴打battery のような性質に基づいて,新しい事実のパターンを表象し,評価しなければならない (Mikhail, 2002a, 2005).これらが明示的な言語による教示や環境における例示によって獲得されたとは考えがたい (Harman, 2000a; Mikhail, 2000)

6.2.2 道徳はどの程度多様なのか?

  • ここまでで個体発生の問題に焦点をあて,「普遍道徳文法」(Universal Moral Grammar: UMG) の存在を擁護してきた.これは子供の初期の経験から,道徳能力の成熟状態を構成する原理システムへのマッピングを行う生得的関数あるいは道徳獲得装置である(Mikhail, 2000, 2002a, 2002b; Mikhail, Sorrentino & Spelke, 1998).道徳の多様性に目を向けた場合,別の問題が浮上してくる.言語においては,普遍文法は獲得が可能である程度に十分に豊かで特定されたものでなければならない(説明的妥当性)一方で,様々な言語環境において異なる文法を獲得できる程度に柔軟でなければならない(記述的妥当性)
  • 道徳的能力においても,同様の記述的妥当性と説明的妥当性との間の緊張が存在するかどうかは明らかではない.答えるべき問いは,(1) ひとびとが実際に獲得する規則の体系あるいは「道徳文法」の性質はどのようなものか? (2) それらはどの程度多様なものか? である.Sripadaは「PPモデルが調停できないほど道徳規範の内容は集団間で多様性を示す」と示唆しているが,支持できない.道徳と言語の表面的な比較によっても,道徳的能力は言語能力よりもより制約されていることがわかる.言語直観のシステムは互いに異なるだけではなく,互いに理解不能なものである.英語圏で育った子供には,日本語やアラビア語の文が文法的であるかどうかどころか,語の境界すら判別がつかない.道徳の領域ではこのようなことは生じない.同一のイベント(たとえば,男が木の根っこと思ってひとを撃つ)は,文化の違いに依らず,しばしば同様の直観を引き起こす (Mikhail, 2002b)
  • さらに,ひとびとは行為をどのような主要素から分析するかについて一致を見せることが多い.「行為,意図,動機,原因・結果,直近・関節的結果,物理的・非物理手的環境」.もしSripadaが正しく,道徳的直観や,その概念的なブロックがあまりに多様であるならば,国際人権法のようなものは不可能になってしまう.国連人権宣言や国際刑事裁判所…などは実際の現象であり,理論はこれに整合的でなければならない.これらは,道徳的直観がある程度共有されていることを明らかにする

6.2.3 道徳的規範の分析性・総合性について

  • Sripadaは「殺人は間違っている」といった規範は分析的に真であるため,規範の内容を非規範的な語彙で枠づける必要があると主張している.しかし,ここには2つの誤りがある.ひとつは,「殺人は間違っている」のような命題は,LockeやHumeが強調したように,分析的ではなく,総合的であり,これは刑法にも示されている.もうひとつは,どのような状況で意図的な殺人が正当化あるいは免罪されうるかはSripadaが示唆するほど多様ではない.実際,人類学および比較刑法学の文献によれば,事実の誤解,必要性,自己防衛,他者の防衛,脅迫,錯乱,挑発など類似し一貫した有限のリストに限定される.また,共通部分はゼロではない.すべての国家が許容するような殺人,そして,すべての国家が糾弾するような殺人が存在する (Mikhail, 2002b)
  • 最後に,「殺人は間違っている」が総合的な命題であるという事実は,その他の道徳的・法的禁止(盗み,殴打,レイプ,詐欺)にも共通の性質である.被定義項は複雑であるが,非規範的な語彙で説明可能である.どの概念も,特定の行為,心的状態,正当化・免罪条件の欠如の集合によって構成されている.この観察の重要性は強調すべきだろう.これは,道徳的判断は知覚プロセスのレベルにおいても刺激の貧困を示すことを意味する.「反応を引き起こす近接刺激に含まれる以上の情報が知覚的反応に存在する.したがって,知覚する生体からの情報の寄与によって知覚的統合が行われなければならない」(Fodor, 1985, p.2).モジュールに関する探求が必要
  • 道徳心理学は,ひとびとが実際に行う直観的な道徳的判断の基礎をなす道徳的能力のシステムを,出来る限り正確に,分離し,記述し,それを心理主義的な枠組みの中でおこなわなければならない.この観点および現在の証拠からすれば,Sripadaの刺激の貧困説の棄却は尚早で根拠がないものである


6.3 HarmanとMikhailへの返答
Chandra Sekhar Sripada

  • どちらも,道徳獲得は言語獲得に比べの学習ターゲットが単純であるという主張を批判している.けれども,ふたりの指摘と著者の主張はすれちがっているかもしれない
  • ターゲット論文の最初で「能力生得説」と「内容生得説」の区別を行った.前者は,道徳判断にとって重要な「心の理論」「行為の理論」が、生得的である(Hauser, 2006)とするもの.これは,論争の余地がなく,著者も同意するものであるから,扱わなかった
  • 「心の理論」や「行為の理論」は,道徳的判断,道徳的意思決定をを促進するものかもしれないが,他の認知領域においても役割を果たす.たとえば,(1) 男は,女性を切り付け女性のお金を盗むために,ナイフを使った (2) 子供は,レモンを切り付けレモネードを作るために,ナイフを使った の2つのシナリオを理解するためには,「心の理論」や「行為の理論」などが必要になるだろうが,こうした能力基づいた計算が道徳的判断へとリンクするのは前者のシナリオのみ.「心の理論」や「行為の理論」は視覚系のように,道徳的判断に用いられるが,道徳的領域に特異的なものではない
  • 内容生得説において重要になってくるのは,たとえば,何が危害か,誰が危害から守られるべきか,どのような危害か,どのレベルの危害か,といった問題で,これらが示す文化的多様性.どのような背得的構造がこうした共通性と多様性の複雑なパターンを説明できるか?
  • HarmanもMikhailもこうした能力生得説と内容生得説の区別に注意を払っていない.行為の分節化に対するMikhailの主張は,「行為の理論」に関する能力生得説についての主張で,これは著者も同意するが,内容生得説に関する著者の主張には直接関係しない
  • Mikhailによる動機や信念や意図に基づく子供の道徳的判断のデータも,「心の理論」に関する能力生得説の主張であり,内容生得説に関する著者の主張には直接関係しない
  • HarmanとMikhailはともに,二重効果原理について言及している.ここでMikhailはふたつの生得性の主張をしている.ひとつは,目的,手段,副作用,殴打のような抽象的な性質のもとで,イベントを分節化する能力についての生得性の主張.もうひとつは,二重効果原理の内容そのものについての生得性の主張
  • 前者は,「心の理論」や「行為の理論」に基づく能力.子供が教えられることなく,こうした理解を行うのだとしたら,これらの能力は生得的であると言える.これは能力生得説に関する主張で,内容生得説に関する著者の主張には直接関係しない
  • 後者は,内容生得説に関する主張.著者は,二重効果原理が生得的であるとするHarmanやMikhailの主張に譲歩してもよいが,この譲歩が何を意味するかについては,注意が必要
  • ターゲット論文の目的は,道徳的規範の内容の文化間の共通性と多様性のパターンについて,IBモデルがもっともよく説明できることを示したもの
  • IBモデルは,すべての領域におけるすべての道徳的規範の内容を形成するすべての生得的構造についての例外なしの説明を与えることを意図したものではない.二重効果原理についてIBモデルが説明を与えることが出来ないとしても,このモデルを棄却すべきであるわけではない.多くの道徳的領域を見渡した時にIBモデルが最善の一般的説明を与えることができるという事実は残るのである

豚の生の意味と科学と哲学と SF

アリストテレスへの答え―科学と哲学はどのようにしてより意味のある生へと豚どもをみちびくか』

Answers for Aristotle: How Science and Philosophy Can Lead Us to A More Meaningful Life

Answers for Aristotle: How Science and Philosophy Can Lead Us to A More Meaningful Life

Chapter 1. Sci-Phi and the Meaning of Life

「あらゆるものに目的がなければならないのか?」神は聞かれた.
「もちろん」ひとは答えた.
「では,それを考え出すことをそなたに任せよう」と言って神は行ってしまわれた.

  • 著者は小さい頃少々ぽっちゃりしており,つらみがあったが,努力して生活改善して QOL があがった
    • 知らずして,サイファイを実践していたのである
    • サイファイとは,人類の持つもっとも強力な知識へのアプローチである科学と哲学を用いて世界と生活を熟考することからくる叡智(と実践的な助言)である
  • 基本的なアイディアは,どんな問題であれ,問題に関連する事実と,そうした事実を評価するときに我々を導く価値があるということ
    • 事実は科学の,価値は哲学の本領なので,サイファイは我々の実存の意味をどう構築するかという永遠の問いにアプローチするための有望な方法
  • ダイエットの問題に戻れば,科学はこの主題について多くの助言が可能だが,いまだに大衆はその知識に気づかずに,奇跡のダイエット,奇跡のピル,その他,表層的な安易な解決策に溺れている
    • Gina Kolata 「痩身を再考する:体重削減の新科学」 (2008) は,Rockefeller 大学病院で八ヶ月にわたって肥満患者を対象にして行われた Jules Hirsch によるダイエット研究を描いている(研究自体は 1959 年で肥満の流行以前)
    • Hirsch らは肥満患者は,一般のひとびとより大きい脂肪細胞を有している事を知り,ダイエットによってそれらがどう変化するかを調べた
    • ダイエットの結果,脂肪細胞のサイズが縮小することが判明し,Hirsch は,これによって,患者らは日常生活に戻った後も標準体型を維持できると考えた
  • しかし,患者らは標準体型を維持したいと望んでいたにも関わらず,数ヶ月で元の体重に戻ってしまった
    • 患者らはさまざまな統制された条件でさまざまな観点から研究された
    • 肥満患者の代謝は正常であり,これは体を現状に保つように調整されていることを意味する
    • 厳しいダイエットの結果,代謝システムは患者が飢餓状態にあると解釈し,代謝を減退させる基礎的な生存メカニズムが発動していた
    • 食事制限が解除されると飢餓を回復させるために,彼らは制御不能な飢えを感じ,元の肥満に戻った
  • 後の研究によって,痩せ過ぎのひとびとにも対称的なメカニズムが働いていることが明らかになった
    • 体重を増やそうと思って,一日 10000 カロリーを摂取すると,代謝が急進する
    • 暴食を止めると,急進した代謝が脂肪を燃やしつくし,元の痩身に戻る
    • こうした研究や,BMI に関する遺伝研究が示すのは,我々には,代謝や体重に関して「設定された幅」があり,こうした自然な幅を逸脱しようとする行為に対して身体は極めて抵抗的であるということ
    • 我々の出来ることには制約があり,それを突破するには意志の強さという貴重な心理的資源のコストがかかる(第9章)
    • ひとびとがこうした知識に気づいていたら,もっと現実的な期待を持ち,より確実な方法を追求し,すぐに幸福を実現させる「銀の玉」のキメラに飛びつくことをやめるだろう
    • 食べ物に関するひとびとの弱さにつけ込んで搾取する産業は崩壊するだろう
  • 哲学は何ができるか?
    • 体重の遺伝や代謝効率や脂肪細胞のサイズといった事実は,それが人々の現実の生活に影響する限りで学術的な関心の対象になるが,なぜ,こうした事実は我々の生活に影響するのか?
    • 科学からの回答は,「肥満は健康に負の影響を持つため」
    • 個人の健康への悪影響だけではなく,社会的な経済コストもかかる
  • しかし,これはストーリーの一部であり,病的な肥満でなくとも,ひとびとは体重に関心を寄せており,ダイエット産業やエクササイズ・マシン産業は何百万ものアメリカ人の強迫観念を搾取している
    • 体重の問題に関連する判断においては,美的で道徳的なものも関与しており,これらは科学ではなく哲学の問題である
  • もし我々が肥満は醜いとかんじているのならば,無意識に,魅力的な人間はどのようなものかについての特定の美学理論を採用しているためである
    • この理論は我々が生活している文化から影響を受けており(物理的な美の概念には時代や地域に関して大きな変異がる),また,ある程度生物学的な本能にも影響を受けている(対称性は健康な遺伝子の指標であるために好まれる)
    • 同様に,自己制御の欠如ゆえに肥満を責めるならば,我々はどのように生きるべきか,どの程度美的基準を満たすために投資を行うべきかについての,道徳的な判断を行っていることになる
    • 我々は気づくことなく,哲学を行っており,悪い哲学は人生を本来あるべきものよりも惨めなものにしてしまう可能性がある
  • 哲学と科学を組み合わせることで世界について,そして,その中でどう生きるべきかについて最善の可能な知識を得るというアイディアは古く,scientia というラテン語の古典的な概念の中に含まれている.Scientia は科学と人文学の両方を含んでいる
    • ドイツ語の wissenschaften という語も同様で,英語の science よりも広いものを指示している
    • 西洋伝統の中で最初に scientia (著者のいうサイファイ)という概念を真剣に捉えた哲学者はアリストテレス (384-322 BCE) で,この本の中で何度も現れてくる
    • アリストテレスについて重要なことは,すでに時代遅れになったその scientia の中身ではなく,特定の哲学的ポジションでもなく,人生はプロジェクトであり,それをどう追求すべきかを自らに問いかけることが最も重要であるという根本的な概念である
    • アリストテレスはこうした大きな問いに哲学的・科学的方法で取り組んだ最初の人間であり,我々はこうした問いに答えることが出来るようになりつつある
  • アリストテレスにとっては,このプロジェクトは eudaimonia の追求に従事することであった
    • Eudaimonia とは,「良いデーモンを持つ事」を意味するギリシャ語で,しばしば「幸福」と訳されるが,より適切には「繁栄」を意味する
    • Eudaimonia は,実存の全域にわたって徳のある行為―すなわち,正しい理由により正しいことを行う事―に従事することで達成される
    • 人生はプロジェクトであるため,人生の価値の査定は,それが終わるまでは不可能であり,こうした考えは現代の我々にとっても未だに直観的な魅力がある
      • たとえば,人生のある地点まで良い生を送っていたものの,その後に非倫理的な行動を起こした人間の人生の評価は低いものになる
      • 逆もしかり.低迷したところから高い倫理的地点に至った人間は賞賛される
  • アリストテレスは良い心理学者であり,我々が何をなすべきかについての理性的な査定と,易きに流れる情動的傾向とを調停することが難しい事をよく知っていた
    • 長期的な健康を保つ事の善を知っているが,直近の報酬へと引きつけられる傾向性は,我々を美食に浸らせ,エクササイズ・マシンから遠ざける
    • アリストテレスは(ファースト・フードを知らなかったが),eudaimonia の増進の障害となるのは,akrasia (意志の弱さ)であると考えていた
    • この意味で,徳が高いとは,善行を妨げる意志の弱さを克服することであり,これがひとを繁栄へと導くのである
  • Eudaimonia がポジティヴな感情という意味での「幸福」ではなく,価値負荷的であり,内在的に道徳的な概念であることは重要である
    • 古代のギリシャ人は物理的な快や富,権力の追求に尽きる人生は,いかに「幸せ」であっても eudaimonic ではないと考えていた
    • これらの追求は,自身を改善せず,世界に良い影響をもたらすわけでもなく,eudaimonia への妨げであると考えられる
    • Eudaimonia は,また,キリスト教の禁欲主義の徳や仏教のデタッチメント(捨無量心?)とも混同されてはならない
    • アリストテレスからエピキュロスに至るまで,良い食事のような物理的快や愛や友情,幸運さえもが,eudaimonic な生にとって必須だと考えていた.
    • しかし,こうしたことに対する内省に時間を費やすことが eudaimonic な生をおくる上で重要だと考えていたのだ
  • 21世紀現在,こうした考えは時代遅れに思われるし,美学や倫理学や人生の意味についての哲学的思索はばかばかしく,医者の命令に単純に従うのが合理的なように思われるかもしれない
    • しかし,事実と価値の重要で見逃されがちな区別に従えば,問題は非常に微妙である
    • 事実から価値を引き出す事は「自然主義的誤謬」として知られる
    • この問題を最初に論じた哲学者のひとりであるヒュームによれば,ひとはしばしば事実について語りながら,結局,継ぎ目無く,説明無く,倫理的規範へと話題を切り替えてしまう
    • ヒュームは事実と価値との間に接続がないことを主張したのではなく,そのような接続を行うものは明示的にそれを正当化する必要があることを指摘したのである
  • 自然主義的誤謬は,この本における科学と哲学の接合が理性ある人間の生活を大きく改善するというアイディアに寄与している
    • 自然主義的誤謬を真剣に受け止めることで,科学のみでは不十分であり,哲学が重要であることがわかる
    • 哲学は入手できる最良の科学的知識を取り込まなければならないし,科学的知識の探求は我々の価値によって導かれなければならない
    • 代謝に関する生物学を理解することで,我々の欲するものと生物学的現実が可能にしてくれるものとの間で妥協点を探すことができる
    • ここで科学は我々の哲学的直観を補正してくれる
    • 同時に,我々の美学的・倫理的価値が,なぜ他の領域ではなく,体重の増減に関する研究へと資金を投資するのかについて正当化することができる
  • もちろん,科学と哲学の明確な境界は人間の歴史においては近年のものだ
    • Galileo Galilei (1564-1642) や Isaac Newton (1642-1727) は自らのことを「自然哲学者」と見なしていた
    • なぜ科学と哲学は別個のものとして発展したのか,そして,それらを再び結合させようとするサイファイいう試みは一体何を意味するのか?
  • 世界の本質の発見からその技術的・医療的応用に至る科学の産物にひとびとは親しんでいるので,なぜ科学が発展したかは,(哲学に比べ)よりわかりやすいだろう
    • しかし, 科学については多くの誤解がある
    • 「科学的方法」なるものは存在しない:科学は秩序だったプロジェクトではあるが,実際の科学者の指導原理は「うまくいくならなんでも」である
    • 科学者は本質的にプラグマティックであり,質問に満足いく答えが得られるまでは,様々な観点から問題にアプローチし,様々な探求方法を採用する
  • 科学の奇妙な点は,しばしば世界の仕組みについてあり得ないような結論に至り,常識を拒絶する事で,その発見に対して大きな拒絶反応をひきおこす事である
    • 量子効果は個体が空間を占める事を説明する;地球は巨大な銀河の片隅の塵のようなもので,その銀河自体が宇宙には何十億もある中のひとつである;人間は(いまだに多くのひとが持つ意見とは異なり)チンパンジーやゴリラの近縁である
    • 「緑柱石の宝冠」におけるシャーロック・ホームズの説明のように,「不可能な物をとりのぞいた後に残る物こそが,どんなにあり得ないように思えても,真理なのだよ,ワトスン君」
  • 科学について,もうひとつ,よく誤解されていることだが,科学は永久の真理を見出す仕事ではなく,真である一定の確率を持つ暫定的な結論を提供するものである
    • 前段落で書いた,宇宙における地球の地位についても,絶対的な真理として書いたのではなく,これまでの積み重ねられた観察と理論から導かれるものであり,将来,そのどちらか(あるいは両方)がひどく間違っていたという結論に到達することもあり得る
    • この場合,未来の宇宙学者は,現在の我々が地動説を唱えたプトレマイオスに対して向けるような哀れみをたたえた微笑みを浮かべて我々を眺めることだろう
    • 科学的結論の暫定性は,科学者の耐えざるインスピレーション源であり,政策決定者や一般大衆の耐えざるフラストレーションと誤解の源でもある
    • 彼らは(特に科学的研究に大金を投資している場合)科学者に「真理」を伝えてもらいたがる
    • 科学はしばしば尊大な人間の究極的な隠れ家として考えられるが,科学者自身は人間の世界についての知識の探求に内在する限界を説明しようとし続けるという皮肉がある
  • 科学を哲学や文学批評やその他の分野と異なるものにしているのは何か?
    • 科学の正確な定義は科学の性質ゆえに不可能だが,科学とは経験的に検証可能なさまざまな方法で理論を継続的に洗練させていくことで特徴づけられた自然界を探求する形式だと主張したい
    • 科学の中心にあるのは,理論と経験的探求の固有のブレンド
    • Immanuel Kant (1724-1804) の言う通り,「理論の導きなき経験は盲目であり,経験の導きなき理論は知的な遊戯にすぎない」
  • 科学より古く,さまざまな発展を遂げてきた哲学を明確に特徴づけるのは更に望みが薄い
    • 伝統的には形而上学,認識論,倫理学,論理学,美学に分割されるが,さらに科学哲学や心の哲学,宗教の哲学など新しい分野が誕生した
  • 20 世紀の最も影響力のある哲学者 Ludwig Wittgenstein (1889-1951) は「哲学とは我々の知性にかけられた言語による魔法に抗する闘いである」と述べた
    • 言語とはその性質上、不正確であり混乱の源であり,語の使用により誤って導かれることに抗し続けなければならない
    • しかし,言語なしでは,世界についての洗練された思考が不可能であることも確かである
    • こうした問題は,科学者が研究において立ち向かうものと同様である:我々が用いるあらゆる道具には必然的に限界があり,誤りうるものであるが,それでも前進するためには道具を用いなければならない
    • 違いは,哲学においては,究極的な人間の道具である言語そのものの効力と限界を取り扱わなければならないということ
  • 哲学とは何かについては膨大な回答の可能性があるが,言語の合理的な使用を取り扱う分野として哲学を考えることが,哲学がどうしてこれほど広範な分野であるかを理解するうえでもっとも容易な方法である
    • 知識を得たりコミュニケーションしたりするうえでもっとも基本的な道具を取り扱うがゆえに,哲学はあらゆる人間の知識を包含するのである
    • 究極的には哲学は合理的な議論の構築(と脱構築)の上に成り立つものである
    • こうした流儀に従わない哲学の伝統(東洋哲学や大陸系哲学の一部など)もあるが,この本で哲学として見なすのは,ソクラテス以前の古代ギリシャから始まった知的活動の一種である  
  • 科学と同様に,哲学に対するよくある誤解もあるのでここで指摘しておく
    • 哲学は,科学同様に,進歩している
    • 科学が進歩していると言えるのは,単純化して言えば,世界に対する理解が世界の実際のあり方とより適合するようになった場合
  • 同様に,哲学が進歩していると言えるのは,人間の概念の意味や含意,そしてそれらと世界との関係をより良く理解するようになった場合
    • たとえば,哲学は人間の道徳性についてのいくつもの理論を生み出し,さまざまな論理的可能性を探索してきた(第五章)
    • アリストテレスは,道徳性とは人間を繁栄させるものであると考えた(いわゆる徳倫理)
    • Jeremy Bentham (1748-1832) と John Stuart Mill (1806-1873) は,功利主義と呼ばれる考え方を提唱し,最大多数の幸福を増進させるものを何であれ倫理的であると考えた
    • カントは他の人間に対して我々が果たすべきある種の義務に基づいた規則の集合として道徳性を明確化した(規則に基づく,あるいは,義務論的な倫理)
  • 哲学者たちは,これらのシステムの含意を取り出し,批判し,洗練や代案を提案してきた
    • 現代の哲学者は,これらの当初の形式をそのまま信奉するほどナイーヴではなく,こうした分野での議論はより洗練されてきており,より新しいレベルの理解へと議論はいまだに進展している
  • 哲学を分野としてどうとらえるにせよ,哲学と科学との関係は,この本で興味深い転回を見せる
    • 自然科学は,当初,哲学から分岐し,専門化が進むにつれて,科学と哲学とは大きく分離してしまった
    • いまだに境界線上に存在し,哲学がどのようにして特定の科学の分野に変化していくかを見せてくれる興味深い分野もある:たとえば意識の本質にかかわる心の哲学
    • 近年までは,こうしたテーマは完全に哲学が扱うものであったが,より多くの神経科学者が技術の進展 (fMRI など) にともなって,取り組むようになった
  • 意識研究に関する学術会議や雑誌には哲学者と科学者が関与しているが,著者の予想では,この分野は次第に科学者によって独占されるようになるだろう(かつての心理学のように)
    • こうした進化は哲学と科学の相対的価値を示すものではなく,二つのアプローチが相補的であることを意味するのみである
    • 問題が曖昧に定義され,経験的に手が付けられない場合は,哲学者が問題を明確化し,科学がそのテーマに適切な実験的ツールを開発するまでに概念的な基盤を用意する
  • しかし,こうした移行だけが可能な経路ではなく,ヒュームのいう自然主義的な誤謬が二分野間の移行を排除する問いは常に存在する可能性がある
    • それらがこの本の主要な関心である
    • 道徳に関する問いは科学的な回答を単に受容することによっては答えられない
    • もちろん意味や価値に関する哲学的議論は,科学的な理解によって支えられなければならない
  • 他にも,最良の科学と最良の哲学の組み合わせによって,より合理的な位置に立てる問題は多くある
    • 何を知識としてみなすべきか,それはなぜか,我々は何者か,友情と愛,正義や政治の分析,神に関する問題,実存の意味
    • これらのすべてにおいて,サイファイは重要な貢献をもたらす
    • 前提は,理性と証拠によって生を導き,改善することに関心を持つこと

抑制のきかない豚には自由意志がない

Are We Free?: Psychology and Free Will

Are We Free?: Psychology and Free Will

Baer, J., Kaufman, J. C., & Baumeister, R. F. (Eds.). (2008). Are We Free? Psychology and Free Will. Oxford University Press, USA.
2 Nichols, S. "Psychology and The Free will debate" (えめばら園)
10 Roediger III, H. R. , Goode M. K., and Zaromb, F. M. "Free Will and the Control of Action" ←いまここ
12 Dennett, D. C. "Some observatoin on the Psychology of Thinking About Free Will" (スウィングしなけりゃ脳がない!)
13 Howard, G. S. "Whose Will, How Free?" (えめばら園)

自由意志は心理学者の思考や著述においてあまり大きな比重を占めていない.Oxford 大学出版の Encyclopedia of Psychology でも,archetypes とか altruism から始まるあらゆる項目を網羅しているのだけれど,自由意志 free will の項目はない.インデックスにもないのだ!自由連想 free association は何度も出てくるのに!
心理学は自由意志のようなものは存在していないという前提に立っているという考えに同意したくもなる.もし好きな時に好きなことをしているだけだとしたら,どうして行動の中に規則性や法則性を探ろうとするのか? これは良い問いなので,多くの実験心理学者は数100ミリ秒ほど自由意志について考えるかもしれないけれど,次の瞬間には,次の実験のデザインについての思索に戻る.こうした問題は哲学者に任せておきたいのだ.
この本も心理学者には読まれないかもしれないけれど,人間行動を研究するものが自由意志についてもっとよく考えるべきだという編集者の考えには同意する.おそらく,自由意志について一番考えるのは,実験が完全にぱーになったときだ.ぼくたちの大事な理論や仮説が予測するようには,被験者がまったく行動してくれないとき,ぼくたちは自由意志を信じだす.
自由意志があるかどうかが本当に問題になるんだろうか? 人間の行動は,信じられないほど,複雑で,Edward O. Wilson は Consilience (1998) の中で,社会科学は「内在的に,物理学や化学よりもはるかにハードで,だから,物理学や化学ではなく,社会科学をハード・サイエンスと呼ぶべきである」と言っている.決定要因が多すぎるのだから,もし人間が自由意志を行為していたとしても,どうやってそれを知ることができるんだろう? 遺伝から環境・文化まで膨大な量の決定要因がある.
(…略)
こうした諸要因は人間行動の決定因子の表層をなではじめただけだ.単純なものであっても人間行動は予測がたいへん難しい.同じ実験の同じ条件のひとびとの中に多くの差異があるのも当然だ.ぼくたちが使う「誤差の分散」は測定誤差だけではなくて,ひとびとの間の多くの差異を反映しているはずだ.こんなに複雑だとしたら,どのようにして自由意志が存在すると知ることができるんだろうか?大釜の中で煮えたぎっている,大量の行動決定要因のひとつにすぎないのか?

自由意志:予備的な考察

  • ここで,この章をやめるべきなのかもしれないけれど,実験心理学のなかには,自由意志に関連する問題に示唆を与えてくれるものがいくつかある
    • 自由意志については,Wikipedia (2006) の「自由意志の問題とは,人間が自らの行為や決定について制御を及ぼしているのかという問題である」という定義を借りる
    • 心理学者は制御については,よく考えてきたので,この定義は都合がよい
    • 自由意志の問題を制御の問題に変換すれば,心理学者も自由意志の存在について語れるかもしれない
  • Benjamin Libet による反応選択パラダイム response-choice paradigm,Gordon Logan らによる停止信号パラダイム stop-signal paradigm,Larry Jacoby らによるプロセス分離パラダイム process-dissociation paradigm,Asher Koriat とMorris Goldsmith による自由/強制報告パラダイム free and forced report paradigm の四つに焦点を当てる
    • 行動の自発的制御の問題を自由意志の問題と同一視してはいけないが,重要な問いに光を当てることはできるはずだ

行為の神経先行物

  • 行動の制御は様々な方法で研究可能だが,単純なタイプの行動制御から始めるのが最良だろう.単純な高度の制御についての最も興味深い研究は,Benjamin Libet (1981) による神経心理学的研究だろう
    • Libet が研究を始めた当時,すでに,運動に先行して,運動前野の上の頭皮で電位の変化が生じることがわかっていた.準備電位 readiness potential として知られている
  • 準備電位は運動より1秒ほど先行することは知られていたが,準備電位と,運動を開始しようとする意識的思考とのタイミングに初めて注目したのがLibet だ
    • Libet は,被験者が行為しようとする意図に意識的にいつ気が付いたか,その行為の意図が準備電位の前に生じるか,後に生じるかを調べようとした
    • 被験者は頭皮に電極を設置され,ランダムな感覚で指を動かすように指示された
    • 指を動かそうとする意図に気づいたときの(特別にデザインされた)時計の針の位置を報告させた
      • 事前のテストで,被験者に弱い電気ショックを与え,そのショックのタイミングを時計の針を用いて報告させることで,時間計測の正確性をテストした.驚くべきことに被験者の回答は 50 ms の範囲で正確だった
  • ほとんどのひとびとは,意識が,神経活動(思考)と運動(行為)の両方を制御していると信じていたので,意識的な意図 → 準備電位の順になると信じていたのだが,実際の結果は,準備電位 → 意識的な意図の順であり,準備電位は意識的な意図に 350 ms 先行していた.意識的な意図は行動に 150 ms 先行していた
  • まず,結果はナイーヴな自由意志の概念―「意識的な意図が運動を引き起こす」―に矛盾する
    • もし行為に相関し先行する神経イベントが,意識的な意図の前に生じるのなら,意識的な意図が行為を引き起こすことはできない
    • しかし,これだけでは自由意志概念の死は決定的ではなく,Libet (1999) は,このデータがある種の自由意志を支持すると議論している
      • 意識的な意図は準備電位の発生より先行していないが,手の運動よりもなお 150 ms 先行している
      • したがって,意識的に意図に気づいてから,運動を抑制するまでに,まだ十分な時間がある
    • つまり,Libet によれば,われわれは自由意志をもっていないかもしないが,「自由拒否」free won’t は持っているかもしれない.既に開始されつつある運動を止めることができる.
    • 反応の抑制を自由意志の核とする Libet の考えは,抑制研究の検証にわれわれを導く
  • Libet の研究やアイディアは哲学と神経科学の両分野で革命的なものだったが,多くの批判も呼んだ.しかしその多くは,知覚のタイミングに関する研究 (Libet et al., 1964) に対するもので,もっとも鋭い批判者も,準備電位が意識的な意図に先行するという知見については否定できないものとみなしている (Pockett, 2004)
  • しかし,著者たちは,Libet に批判的ではないその他の研究者の知見のほうが,より,Libet のアイディアを損なうものであることを発見した.Haggard らは自らの行為を制御していないと信じるように催眠術をかけて Libet と同様の実験を行った (Haggard, Cartledge, Dafydd, & Oakley, 2004)
    • 催眠術群を,自らの行為を知りながら制御した群(制御群),制御しなかった群(非制御群)と比較
      • 制御群はランダムなタイミングでボタンを押すよう指示され,非制御群ではボタンが自動的にランダムに押された
      • 催眠術群は,ボタンは自動的にランダムに押されると伝えられたが,実際は,彼らがボタンをいつ押すかを選択していたのである(!?)
    • 被験者は,ボタン押しがどの程度自発的かどうかを判定し,また,指が動いた時間を推定した
      • 催眠術群と非制御群の被験者は,指の運動は非自発的であると知覚した
      • 制御群の被験者はみずからの運動により強い予期を見せ,知覚された行為のタイミングは実際の行為のタイミングよりも早かった.この効果は,非制御群よりも大きかった
      • しかし,催眠術群の被験者は,実際には自発的運動をしていたのだが,予期の大きさは非制御群と同様であった
    • この結果は,催眠術群の被験者は自らの自由な行為について意識的でないことを示す
  • もし行為が,強制されていると信じていながら,かつ,自由でありうるなら,意識的な意志は自由意志の問いと無関係なのか?
    • 行動を自己制御しているという感覚は,実際の行動の原因とは分離しうるという Wegner の発見と関連した問題 (Wegner, 2003, および当書の担当節).
    • ひとびとは行為を引き起こしつつ,それに気づかないでいることがあるし,実際は外力によってトリガーされている行為を,自ら引き起こしていると考えることもある
    • Wegner は,この発見が自由意志を反駁するものとして考えているが,無意識の意志から発動した行為でさえも,それが外から引き起こされたものでないならば,自由意志の証拠となりうると考えるものもいる (Rosenthal, 2002)
  • 自由意志が無意識でありうると認めることは,Libet の研究の別の批判を和らげる効果もある
    • もし準備電位に似たような無意識の神経活動が「自由拒否」に先行しているのならば,「自由拒否」は自由意志の証拠にならないという批判
    • もし我々が自由意志は無意識でありうるということを認めるならば(Libet (2006) は拒絶しているが),無意識の原因が行為を抑制する可能性によって自由意志の概念が破壊されることはない
    • これは難しい問題なので,自由意志に意識的な決定が必要なのか問題,無意識の決定が自由意志を構成できるのか問題は,他のひとに任せようと思うが,無意識の意志という概念は,ストレートな自由意志の概念からはだいぶほど遠いことは間違いない

単純な行為の抑制

  • 抑制を調べるもっとも単純な方法は,Gordon Logan によって30年前に開発された停止信号パラダイム stop-signal paradigm
    • 被験者は X から O を区別するような単純な課題を繰り返す
    • 一部の試行(たとえば 20%)では,実行信号 (X or O) が出た後,被験者が反応するまでの間に,音が鳴り (停止信号),被験者は区別課題をやめなければならない (Logan, 1994)
    • 実行試行の反応時間は,実行信号 (X or O) が出てから,被験者がボタンを押すまで
    • 停止試行の反応時間は,停止信号が出てから,停止プロセスが生じるまで → 停止は,行動に現れないので,計測不能
      • 停止プロセスの長さは,実行反応時間の分布において,停止試行で停止の生じた確率より左側の分布を見ることで推定できる (Logan, 1994)
      • たとえば,もし,停止試行で停止が生じた確率が 85% で,[下位=遅い側]85% の 実行試行の反応時間が 300 ms 以下だったら,実行信号から停止プロセスの間の時間は 300 ms である;実行信号から 停止信号提示までの遅延を差し引けば,それが,停止試行の反応時間である (Logan, 1994)
    • 多くの研究者が停止信号パラダイムを用いて,さまざまな課題や被験者集団の効果を調べてきた.
      • Libet の課題と停止信号パラダイムを組み合わせた研究によれば,準備電位が見られた後でも,行為は停止が可能であることがわかっている (De Jong, Coles, Logan & Gratton, 1990) 
      • 停止信号パラダイムは「自由拒否」の存在とその限界について何らかの示唆を与える
  • その他の実験について見る前に,基本のフレームワークである競争モデル horse-race morel を説明する
    • 実行プロセスと停止プロセスという競合する二つの心的プロセスがあり,停止プロセスが実行プロセスよりも早く完遂されれば,行為は抑制され,そうでなければ,行為が遂行される
    • このモデルの重要な点は,二つのプロセスが独立であるということで,データはおおよそこの仮定に一致している (Logan, 1994)
    • このモデルに従えば,四つの要素だけが反応の抑制を決定する
      • 実行信号と停止信号との間の遅延 (stop signal delay)
      • 停止プロセスを完遂するのに必要な平均反応時間
      • 実行課題を完遂するのに必要な平均反応時間
      • 実行課題を完遂するのに必要な平均反応時間の分散(停止プロセスの分散も関係するが,単純化のためゼロとする)
    • 重要なのは,両プロセスの開始時間ではなく,相対的な完了時間が抑制を決定する
  • 著者らは,まず,実行信号と停止信号の間の遅延の効果を調査した (Logan, Cowan & Davis, 1984)
    • 実行課題の反応時間より,停止プロセスの反応時間のほうが早い
    • 遅延が大きくなるほど,停止プロセスの反応時間は早くなる
  • 停止プロセスについては,多くの実験を通じて一貫した知見が得られている
    • さまざまな種類の行為を抑制するのにおおよそ同じくらいの時間を要する (Logan & Cowan, 1984)
    • 離散的な課題(文字の区別)と連続的な課題(タイピングなど)は同じくらいの容易さで抑制できる
    • 停止プロセスの反応時間の被験者間の分散は比較的小さく,だいたい 200 ms ほどで行為を抑制できる (Logan & Cowan, 1984)
  • さまざまな被験者集団間での停止プロセスも調査されてきた
    • 衝動性の高い大学生は,衝動性の平均的な大学生よりも,停止プロセスが長い (Logan, Schachar & Tannock, 1997).実行課題の反応時間には差がないので,認知プロセス全般が遅くなっているわけではない
    • ADHD の子供は普通の子供とくらべ,停止プロセスが長いが,実行課題でも多くのエラーをする.Stimulant medication による治療を受けている ADHD の子供は実行課題でも停止課題でも,反応時間が早くなり,エラーも少なくなった (Bedard et al., 2003).抑制の失敗は ADHD の問題のひとつでしかないようだ
    • 前頭葉に損傷のある患者は,実行課題と停止課題の双方の反応時間が遅くなるが,停止課題に特異的な遅延は見られない (Dimitrov et al., 2003).前頭葉損傷患者が多くの反応抑制に問題を抱えている事を考えると,これは驚くべき結果.
    • 高齢者は,若者に比べ,実行課題の反応時間が遅くなっているが,停止課題停止課題の反応時間の遅延はより大きい (Kramer et al., 1994; Rush et al., 2006).
  • こうした単純な課題の抑制から制御について何が言えるか?
    • 確かなのは,抑制が,人間の確固たる能力であるということ.人間はあらゆる思考や行為を抑制できる.抑制のタイムコースはさまざまな課題で類似している.単純化して言えば,抑制は人間のもっとも重要な能力のひとつである.抑制能力がなければ,行動に対する制御は不可能だろう (e.g., Hasher, Stoltzfus & Rypma, 1991)

記憶パフォーマンスにおける制御を精査する

  • 上記の発見は人間の行動制御における抑制の働きを明らかにするものであったが,これらの実験は短期間の単純な課題に関するパフォーマンスを説明するのみであることは重要.長期間の複雑で熟慮された行為についてはまだわからない.たとえば,会話で何を言うべきで何を言うべきでないか,筆記試験で何を書くべきか,法廷で目撃者として何を思い出すべきかといった課題.
  • そのような状況では,思い浮かんだ事すべてを単純に話したり書いたりはしないと仮定することはもっともである.むしろ,状況や目標に応じて,意識的で熟慮された方法で,どの情報を差し出し,控えるかを判断している(可能性がある)
    • さらなる仮定として,情報に結びついた主観的経験に応じて,何が情報として想起されるかは異なるだろう
  • 過去を想起するとき,文脈やその時体験した特定の感情に関する詳細を意識的に想起する事があるかもしれない.この場合,情報が特定のイベントの発生に根ざすことは確信できるだろう.あるいは,特定の詳細が,おもいもよらずに,親近感あふれる様で浮かんできたのだが,その情報の源を意識的には思い出せないこともあるかもしれない.こうした場合でも,親近感のみに基づいて詳細を想起すべきかどうかについて,選択が可能なように思われる
    • したがって(特に,過去について想起する際)われわれは自らの日常の思考や行為について,かなりの制御が可能なように思われる
    • しかし,こうした状況で実際どの程度われわれは制御を行っているのだろうか?
  • 一見,認知心理学者はこの問いについて肯定的な答えを最も与えたがらないように思われる.心理学実験においては,どのみち,被験者の行動に自由は与えられていないのだ.どのような反応を被験者がとるかは実験者によって定義され注意深く制御されている.このレンジから外れたものは矯正されるか,はずれ値として除外される.
    • しかし,近年,さまざまな認知課題において制御プロセスの影響を経験的に調べる方法への関心が非常に高まっている
    • 記憶課題における制御を調べる影響力の大きいふたつのパラダイム
      • Larry Jacoby らによるプロセス乖離法 process-dissociation procedure (PDP)
      • Asher Koriat と Morris Goldsmith による自由/強制報告法 free and forced report procedure
    • これらは認知制御に影響を与える多くの変数を明らかにし,定量化を可能にし,自由意志の研究にも寄与するはず
  • PDP は,意識的に制御されたプロセスと無意識的に制御された(あるいは自動的な)プロセスが,それぞれ,記憶課題の成績に影響を与える程度を推定するために用いられる (for a review, see Kelly & Jacoby, 2000)
    • PDP は二つの理論的仮定にもとづく (Jacoby, 1991)
      • 記憶課題のパフォーマンスは,単一の心的プロセスの作動を反映しているのではなく,複数の心的プロセスの産物
      • 諸プロセスの記憶課題への寄与は独立で,実験条件や被験者集団によって分離可能
    • PDP によって明らかになりつつあること:意識的な制御は部分的にしか働かない
  • PDP を実際に用いるには,二種類の心的プロセス(例,意識的 vs. 無意識的,制御された vs. 自動的な)を対立させる対立法 opposing procedure を採用する必要がある
    • たとえば,まず,被験者は語のリスト(例,element)を学習し,その後,語幹穴埋め課題(例,ele___)を行う.
      • 包含条件では,事前に学習した語だけを用いて,語幹を穴埋めするように指示される(正解はelement)
      • 除外条件では,事前に学習しなかった語を用いて,語幹を穴埋めするように指示される(正解は,elephant, elegant, election など)
    • もし除外条件で,事前に学習した語を答えてしまった場合,そのパフォーマンスは自動的な記憶プロセスに影響を受けていることを示唆する
      • たとえば,element の産出が,その語を学習させないベースライン条件と比べ上昇していたら,事前の学習によってその語がプライム(活性化)されていたことを示し,意識的な想起(制御されたプロセス)によってうまく抑制されなかったことを示す
    • 以上のように包含条件と除外条件のパフォーマンスに基づいて二つのプロセスの寄与をそれぞれ定量的に推定できるのが PDP(詳細な計算方法は,Jacoby, Toth and Yonelinas 1993)
  • PDP によって,注意を分割すると意識的な想起は現象するが,無意識的なあるいは自動的な記憶への影響は左右されないことがわかっている (Jacoby et al., 1993).また,訓練された習慣的行動と意識的な想起が手がかりに基づく想起のパフォーマンスに与える影響を PDP の変種を用いて調べた研究もある (Jacoby, 1996)
    • 最初の訓練期間に,被験者は典型的な連合をもつペア(例,knee-bend)を 75%,非典型的な連合を持つペア(例,knee-bone)を 25% 学習する
    • 次に非典型的な連合を持つペアを含む語のペアのリストを学習する
    • 最後に片方の手がかりをもとに,最初のリストに基づいてペアとなる語の穴埋めを行う(例,knee-b_n_)
  • Jacoby らは,典型的なペアの正しい想起 (knee-bend) は意識的な想起と訓練された習慣的反応のどちらによっても可能であり,非典型的なペアを学習した後で誤って習慣的反応を行った場合は,習慣がその反応の基になっていると仮定している.さらに,これらの二つの反応の源は独立であるという仮定も行っている
    • Hay and Jacoby (1996) は,手がかりにもとづく想起のパフォーマンスに対して,意識的な想起と自動的な習慣のそれぞれの寄与を計算した
    • 初期の訓練量は意識的な想起の寄与に影響を与えなかったが,習慣的反応の寄与には影響を与えた
    • 高齢者と若者を比較した研究では,高齢者の意識的な想起の能力は減退しているが,習慣的反応の寄与は同等であることがわかっている (Hay and Jacoby, 1999)
  • これらの研究が示すのは,単一の課題のパフォーマンスに異なる独立の記憶プロセスが関わっているということ.
    • 自由意志に関する問い,すなわち,行動や意思決定に対して制御が可能かどうかに対しては,肯定的な回答を与えるが,どの程度制御が可能なのかについては,別の問題である
    • PDP によれば,ひとびとが純粋な自由意志の発現であるとみなすような行動は,実際は,制御されたプロセスと自動的なプロセス,あるいは,意識的な思考と無意識的な思考の産物である
    • 行動は部分的に自動的で部分的に意識的な制御下にある:「プロセス不純性」process impurity.PDP はそれぞれの寄与を定量化し,影響を与える要素を同定するのに有用

記憶を報告する選択肢を操作する

  • 行動の制御への実験的アプローチとしてもうひとつの影響力ある方法「自由/強制報告法」(Koriat and Goldsmith, 1994, 1996) は,認知課題における反応の質・量を被験者に制御させるもので,報告オプション,すなわち,情報を差し出すか差し控えるかの意思決定の役割の重要性を示す
    • Koriat and Goldsmith (1994) では,一般的な知識問題が,想起形式(「月光ソナタ」の作曲者は誰ですか?)あるいは再認形式(「月光ソナタ」の作曲者は誰ですか? ベートーヴェン・バッハ・チャイコフスキーシューマンブラームス)のどちらかで示されたのち,被験者は自由報告(答えられると思う問題に回答してください)あるいは強制報告(すべての問題に回答してください)のどちらかの指示が与えられた
    • 自由報告は,被験者にどの問題に答えるか,どの情報を回答として差し出すかを選択する自由を与える一方で,強制報告は,被験者にそのような自由を与えない(したがって,意識的および自動的な影響の双方が関与するはず)
    • 正答数と正答率を定量
  • 結果は,強制報告は自由報告と比べて,正答数を増やすことはなかった.強制されることで想起の閾下にある回答を産出したり,あるいはランダムな推測をしたりすることによって,追加的な正答を思いつくかもしれないという予測からすると,これは驚くべきこと
    • 対照的に,自由報告は想起・再認の両課題で記憶の正確性(正答率)を向上させた
    • この結果は,心理学実験においてより慣習的な,語のリストの想起・再認でも再現された
  • これらの初期の研究が示すのは,ある時点において引き出せる情報量に対してひとびとはほとんど制御できないということ
    • 被験者により多く反応するように促すことによって想起の基準を変更させても,正しく想起できる情報量は増大しない (Bousfield & Rosner, 1970; Roediger & Payne, 1985; Roediger, Srinivas, & Waddil, 1989)
      • つまり,被験者に記憶報告のなんらかの制御を許しても,引き出すことのできる情報がどの程度正確であるかは影響を受けない
    • 一方で,間違いやすそうな回答を差し控えることで,情報の正確性をある程度制御することは可能である
  • より重要な Koriat and Goldsmith (1994) の発見は,回答の正確性への動機づけを変化させることで,正確性を向上させることが可能であるということ
    • 一般的知識課題に対する自由回答において,被験者は,正答に対して高いインセンティヴか,中程度のインセンティヴのどちらかを与えられた
      • 中程度のインセンティヴ条件では,正答の報酬と誤答のペナルティは同等であり,高いインセンティヴ条件では,正答の報酬より誤答のペナルティが大きい
    • 正答へのインセンティヴを上げることで,正確性は向上したが,代わりに,正答量は減少した
      • 曖昧な回答を差し控えることで正確性が向上するため,質と量のトレード・オフが生じる
      • 回答の候補を無意識的にスクリーニングするプロセス,あるいは,モニタリングの効率性は完全ではないため,回答量が減少するコストを生む
  • Koriat and Goldsmith (1996) は,主観的な確信度とモニタリングの効率性といった要素がどのように記憶課題のパフォーマンスに影響を与えるかを調べた
    • 被験者はまず一般的知識問題に想起あるいは再認のどちらかの形式で強制回答し,回答の確信度を評定した.その後に,同様の問題に高あるいは中程度のインセンティヴを与えられ自由回答した
  • 先行研究と同様に,インセンティヴを高めることで,質と量のトレード・オフが生じることが確認されるとともに,自由回答において被験者は確信度の強さに応じて回答を差し出すことが分かった
    • 被験者は,過去を想起する際,正しいと思われる主観的確率の高い反応が出力されることを許す制御閾値を適用していると解釈.反応がこの閾値を超えない場合は,出力が差し控えられる
    • 正確性へのモチヴェーションを増加させることで,記憶の正確性は向上するが,それによって高い制御閾値が課されることになる
  • 判断が反応基準に基づいてなされるという提案は新しいものではなく,信号検出理論 (signal detection theory: SDT; Green & Swets, 1966; Wixted & Stretch, 2004) も同様
    • SDT は,たとえば想起課題において,あるアイテムの親近性や強度が反応閾値を超えた場合に「見た」と判断し,下回る場合に「見ていない」と判断すると想定する
    • しかし,SDT の有効性は強制報告の場合のみに限定されるのに対し,自由/強制報告法はそれぞれの条件下での反応基準の変化を計測することができる
    • Tulving (1993) が言うように,想起された事象を報告するかどうかを決定する「変換閾値」conversion threshold は条件によって上下する
  • モニタリングの効率性に関しては,正答と誤答を区別する能力が低いときに,正確性を向上させる能力が損なわれるのではないかと考えられる
    • 実際,被験者が「ひっかけ」問題(オーストラリアの首都はどこでしょう?)に回答しようとしたときは,モニタリングの効率性が低くなり,結果として,自由回答時の報告の制御による正確性の向上が失われることがわかった (Koriat and Goldsmith, 1996, 実験2)
    • 被験者は主観的確信度に基づいて反応を行おうとするが,ひっかけ問題では,主観的確信度は正確な反応のための良い指標ではなくなってしまう
    • 理論的には,モニタリングの効率性が完全であれば,質と量のトレード・オフは生じない
  • SDT では,主観的確信度は記憶の強度と同一視されるが(主観的確信度判断を用いて ROC カーブを描く),Koriat and Goldsmith の理論的枠組みでは,主観的確信度が信頼できる想起の基盤ではないような状況を扱うことができる
    • 勢ぞろいした容疑者の中から,目撃者の証言に基づいて,犯人を同定することを想定してみよう
    • 主観的確信度は正確な同定のための信頼できるガイドではないことが示されている (for a brief review, see Wells, Olson, & Charman, 2002)
      • 目撃者に強化(「ぐっじょぶ,君は良い目撃者だ」)を与えることで,正確性を向上させることなしに主観的確信度を上げることができる (Wells & Bradfield, 1999)
      • 記憶の誤り[の可能性?]について何度も尋ねても,誤想起を修正することがないどころか,誤想起への確信度を高めてしまう (Shaw, 1996; Shaw & McLure, 1996)
  • Goldsmith and Koriat (1999) は,近年,記憶の報告を制御する別の方法,「粒度」grain sizeの制御,すなわち,反応の一般性あるいは詳細さのレベル,を検証した
    • たとえば,「いつ強盗事件が起こったのか?」と尋ねることで,より正確になるような枠組みで回答するようになるかもしれない(「午前11時30分です」と答えるよりも「朝おそくです」)
    • しかし,同時に,あまりに正確性を追求すると,情報量が減少する(「第二次世界大戦は20世紀のどこかで発生した」)
    • 粒度の選択は,正確性と情報量との競合に対する被験者の妥協として生じることが示されている (Goldsmith & Koriat, 1999; Yaniv & Foster, 1995)
  • Koriat and Goldsmith によれば,記憶報告に対する制御は,目標や環境によって変化する個人の制御閾値によって決定されている.この制御プロセスに影響を与える要素を量的に検証するために,Koriat and Goldsmith (1996) は quantity-accuracy profile (QAP) と呼ばれる手続きを開発した
    • QAP は,個々人の差し控えのレベルとモニタリングの効率性に依存する制御閾値で決定される,反応量と正確性を総合した指標
    • QAP は単に量と正確性を記述するのみならず,モニタリングの効率性と制御の推定値を与え,実験状況における被験者の目標やインセンティヴを考慮することを可能にする(粒度はまだ組み込まれていない)
  • Koriat and Goldsmith (1996) の枠組みは,子供や高齢者や統合失調症患者に適用されてきた
    • 8-9歳の子供は自由報告によって記憶報告の正確性を向上させたが,数歳上の子供には量と正確性の双方で及ばなかった (Koriat et al., 2001)
    • 高齢者は強制報告から自由報告に切り替えた際の正確性の向上が,若者に比べて小さかった (Jacoby, Bishara, Hessels & Toth, 2005; Kelley & Sahakyan, 2003; Meade & Roediger, 2006; Rhodes & Kelley, 2005)
  • 自由/強制報告法によって観察される形態の制御は,すでに候補にあがった反応を,言語報告する直前の比較的おそい段階で,抑制する能力だと考えられる
    • 候補となる反応は意識的な努力によって引き出されたのかもしれないし,無意識的あるいは自動的なプロセス,あるいはその双方によるのかもしれない
      • Koriat and Goldsmith (1995) の枠組みは,当初引き出された情報が無意識的あるいは自動的であることを仮定していない
      • じっさい,想起においてどのような情報をとりだすかをひとびとがコントロールできる (early selection) ことが示されている (e.g., Jacoby, Shimizu, Daniels, & Rhodes, 2005)
    • Koriat and Goldsmith (1995) の枠組みにおいては,制御メカニズムは,反応が生成され選択された後の,門番として働いている
      • 閾値を超えた情報は受動的に言語報告の状態へと到達するし,閾下の情報は出力を差し控えられる
    • この枠組みは,行動に対して完全な意識的制御の能力を有しているというアイディアを脅かすものであり,Koriat and Goldsmith (1996) は記憶の制御に関してより控えめな領域を提唱している

結論
まず,意識的な制御が自由意志と同一視できるのかについては,はっきりと NO と言える.主体が完全に行動を意識的に制御していると考えている場合でさえ,多くの外的要因が行動に影響を与えている.以上で見てきた 4つの問題は自由意志の問題に関係するけれど,問題を収束させるよりも,さらに多くの問いを投げかける.たとえば,反応抑制の能力は強力で,これなしでは自由意志は不可能だと論じることができるかもしれない.なにしろ,抑制能力がなければ,外的であれ,内的であれ,衝動的なものを止めることができなくなってしまうからだ.けれども,自由意志を行動の抑制として直接観察できると前提すれば,自由意志は抑制によって測定できるのだろうか?
この問いは,抑制の障害を示すひとびと―たとえば,子供,高齢者,一部の患者―には痛烈である.もし抑制が自由意志に等しいとする Libet に同意するなら,こうしたひとびとは自由意志の障害に苦しんでいることになる.いっけん,自由意志を計測可能な心的能力とすることや,多くのひとびとを自由意志が欠けているとみなすことは奇妙におもわれる.しかし,よく考えると,こうした考えはすでに非明示的に多くの分野で受け入れられているし,知恵の中にも刻まれている.この原理は,行為が計画されていたかどうかによって被告の扱いを変える法体系に明らかだ.計画殺人は,ほかの状況が同様でも,無計画な殺人と比べてより悪いものとされる.怒りにかられたひとには自由意志がないとみなしているのだ.
Koriat と Goldsmith らの研究に立ち返れば,子供や,高齢者や,あるいは,ぼくたちは,目撃者として「真実を,すべての真実を,そして真実のみを」語るという誓いに相応しいと言えるだろうか? 記憶の正確性をモニタリングするのは難しく,誤った記憶の証言は重大な結果をもたらすというのに? ここでも,自由意志の核が行動の制御にあるのならば,制御の弱いひとびとは自由意志も弱いと言える.では,実践的な課題の制御が向上した場合,自由意志もエンハンスされたと言えるんだろうか? これも一見,奇妙かもしれないが,自発的な制御が自由意志に関与するというのはありふれた考えだ.過食や暴走やアルコール過剰摂取に抵抗する「自己制御」能力への信仰は広範なものだ.ひとびとが臨床心理士に相談する主な理由は,自己制御を得るためだ.この章では扱わなかった臨床における自己制御も自由意志に関する議論では重要になるだろう.自由意志の問題は,それが完全に解決されることはないとしても,常に心理学の一部でなければならない.